歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

もう一つの中国史(連載第1回)

 

 地政学上古くから中国史への関心が強い日本では中国史を扱う書籍・情報は通史・個別史を含め、無数に存在するが、その多くは中国人=漢民族を中心に描かれている。これは、中国の支配民族が漢民族であることからして無理もないことではあるが、中国史の読み方としては、一面的・平面的になる。
 これに対して、近年はチベットウイグルなど「西域」の少数民族の解放運動と中国当局の衝突が国際関心事となっているため、中国の少数民族問題が改めて注目を集めている。ただ、その多くは、中国批判を絡めた現状分析的な関心に偏り、政治中立的に中国史の全体を少数民族を焦点に読み直そうとする意識は乏しく見える。
 現代中国—台湾も含めた広い意味—に連なる中国史の主役が漢民族であったことは否定できない事実であるが、広大な中国大陸とその周辺には多様な非漢民族が割拠し、時に中心部(いわゆる中原)を攻略し、独自の王朝を樹立することもあるなど、少数民族たちは単なる脇役を越えた役割を果たしてきた。その意味では「少数民族」ではなく、「周辺民族」と表現したほうが実態に合致するだろう。
 そうした「周辺民族」の視点で中国史を読み直せば、一味違った中国史—もう一つの中国史—も浮かび上がってくるのではないだろうか。
 といっても、長大な中国史に登場してくる多岐にわたる個々の民族に焦点を当て過ぎると、それは当該民族中心史観となるだけであるので、本連載ではいかなる「中心史観」も排した「中立史観」の立場で記述するつもりである。
 本連載は、これまで連載した、もしくは連載中の当ブログ上の歴史企画すべてがそうであるように、専門史家ではない筆者の手になるある種の外史ではあるけれども、枝葉末節の専門家視点では読み取り切れない何かが見い出されれば、それで拙連載のささやかな目的は達成されたことになるだろう。

ユダヤ人の誕生(連載第8回)

Ⅲ 入植・王国時代

(7)平野部再移住
 前回、旧約の「出エジプト」とは本来ほぼ今日のパレスチナに相当するカナンの先住民であった原カナン人の一部が、エジプトの支配を逃れて山地へ移住した事実を壮大な物語化したものであろうと論じた。
 旧約によれば、ユダヤ民族はモーセに率いられてエジプト本国を出国し、苦難の末、モーセを継いだヨシュアの時、カナンの地へ帰還を果たすが、モーセ一行がたどったとされるルートの検証がほとんど成功していないのは、エジプト本国からユダヤ民族が大挙して出国したということが史実でない以上、当然のことである。
 実際のところ、ヨシュア以降、いわゆる士師時代に進展するユダヤ民族のカナン入植とは、いったん中央山地へ逃れ定住していた勢力が再び平野部へ再移住していった事実の反映であると考えられる。
 通常、士師時代は初期鉄器時代、すなわち紀元前13世紀末頃から紀元前11世紀中頃までと理解されているが、山地へ逃れた勢力が平野部へ再移住し得た要因として、エジプトの西アジア支配が失われたことが最も大きいはずであるので、それを考慮すれば、エジプトが最盛期を過ぎ衰退を始めた第20王朝の時代、ことにエジプトの内政が混乱に陥った紀元前12世紀半ば以降の可能性が高い。
 旧約によれば、士師時代のカナンには「カナン人」をはじめとする七つの異民族が居住しており、ユダヤ民族はこれら異民族を征服してカナン入植を進めていくことになるのだが、実際上これらの「異民族」とは元来はユダヤ民族と同様に「原カナン人」から派生した諸民族にほかならなかった。
 山地勢力は山地居住を通じてカナン伝統の宗教とは異なる後のユダヤ教につながる独自の宗教的慣習とそれをベースとした民族的アイデンティティを形成しており、平野部勢力を打倒すべき「異民族」と認識するようになっていたのであろう。
 真に「異民族」と言えたのは、士師時代後半期に主敵となるペリシテ人勢力である。ペリシテ人とはパレスチナの地名の語源ともなった勢力で、元来はいわゆる「海の民」の構成集団で、エジプト当局の許可の下、カナン南部地域に居住していた。かれらの民族的出自は多様であったが、その支配層はギリシャ系と見られる。
 旧約では特に士師サムソンの物語の中でペリシテ人との抗争が中心的に叙述されているが、おそらくエジプトの衰退後、ペリシテ人も自立化し、いくつかの都市国家に分かれて勢力を張るようになり、同じく優勢化していたユダヤ勢力と衝突を起こすようになったのだろう。
 旧約によれば、ユダヤ民族はこれらの敵勢力を順次征服してカナンの地の支配者となるのだが、完全に滅ぼすことはしなかったとされているとおり、入植の過程で近隣集団と衝突を繰り返しながらも、通婚・混血によってこれらの集団を吸収・同化していったのであろう。
 こうした入植活動を指揮したのが旧約で士師と呼ばれる英雄的指導者たちであったが、この時期のユダヤ民族はまだ統一されておらず、山地勢力が首領に率いられた小さな武装集団に分かれて順次平野部への入植活動を展開し、平野部の新たな居住地域ごとにいわゆる十二部族に代表されるような諸部族を形成するようになったと考えられる。
 同時に、こうして平野部再入植を果たして初めて、統一した民族意識イスラエル人―も形成され、政治的にも独自の王国樹立への機運が生じていったのであろう。

外様小藩政治経済史(連載第16回)

四 福江藩の場合 

 

(3)社会動向
 福江藩は、小さな島の領主がそのまま近世大名成りして治めていた小藩であったわりに―むしろ、それゆえにと言うべきか―、藩の主軸産業である漁業の権益も絡み、騒動・騒乱が各時代ごとに勃発する傾向にあり、波乱の小藩であった。
 最初の騒動は、2代藩主五島盛利の時、初代藩主玄雅の孫(養子)に当たる大浜主水が藩主継承権と盛利の失政を幕府に直訴した一件である。
 この一件の背景には、元来、盛利が初代の従兄弟の子という遠縁継承であったことに加え、藩主権力強化のため、兵農分離と家臣団の城下居住義務(福江直り)を強行したことへの反発があったと見られるが、幕府の裁定は盛利勝訴であり、盛利は主水とその一派への処刑で応じた。
 この大浜騒動を乗り切った盛利を継いだ長男の3代盛次は生来病弱のため、兄の盛清が藩政代行者となったが、そのために兄弟間の対立が昂じ、盛清が早世すると、後を継いだ4代盛勝は幼少のため、幕命で盛清が後見人として引き続き藩政を執った。
 しかし、盛勝の成長に伴い、盛清は功績から分知を受けて3000石の富江領を安堵され、交代寄合に列した。こうして盛清が事実上の独立領主に近い立場となり、しかも漁業中心地の有川湾の漁業権の大半を掌握したうえ、捕鯨権を対岸の大村藩の網元に丸投げするという策により、前回も見た通算で一世紀にも及ぶ海境紛争が勃発した。
 この紛争の間、藩財政も逼迫し、高役銀や三年奉公制などの悪制を次々と導入することになるが、不思議と百姓一揆は起こらなかった。
 ただ、8代藩主盛運の時に導入した大村藩からの入植政策は成功を収め、藩財政の一時的な立て直しに寄与したほか、この時、入植者の中に含まれていた隠れキリシタンを庇護したため、盛運は福の神として崇拝されるまでになった。
 しかし、寛政期には財政が再び悪化、ついに寛政9年(1797年)、福江藩史上初となる百姓一揆が起きたのである。19世紀に入ると、辺境領主の一角として海防策を幕府から求められたことで財政悪化に拍車がかかり、御用商人との間で武士身分の売官を行ったため、商人階級の藩政介入を助長した。
 ただ、これは見方によれば、ある種の実力主義への転換でもあり、近代的官僚制の萌芽でもある序位昇進制の導入につながり、元来人材が不足しがちな小藩にとっては、プラスとなる面もあったのは皮肉であった。
 しかし、他の小藩と同様に、抜本的な財政再建は困難であり、文政8年(1825年)にも再び大規模な百姓一揆が勃発する中、9代藩主盛繁は文政12年(1829年)、早々と家督を長男の盛成[もりあきら]に譲り、隠居した。