歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

松平徳川女人列伝(連載第11回)

十七 浄円院(1655年‐1726年)/覚樹院(1697年‐1777年) 浄円院と覚樹院は、それぞれ8代将軍徳川吉宗の生母と側室として、吉宗とゆかりの深い女人である。特に浄円院は吉宗の生母として、徳川宗家から紀伊徳川家への実質的な「政権交代」…

私家版アイヌ烈士列伝(連載第4回)

四 シャクシャイン(?‐1669年) 16世紀半ばのアイヌ‐和人勢力間で結ばれた講和協定「夷狄の商舶往還の法度」により、ひとまずアイヌと和人の間の紛争は沈静化し、その後の一世紀余りは平和な状態が続くが、協定はアイヌを東西の勢力に大きく分断する…

白川郷内ケ島氏興亡物語(連載第2回)

二 白川郷内ケ島氏の興り 白川郷を本拠とする白川郷内ケ島氏としての初代に当たるのは為氏であるが、白川郷内ケ島氏を興した実質的な家祖は為氏の父季氏だったと言える、前回も触れたように、季氏は足利第3代将軍義満の馬廻衆に名を連ね、内ケ島氏の家格を…

もう一つの中国史(連載第9回)

三 北中国の混成 (3)匈奴の解体と諸族割拠 冒頓単于の台頭以降60年にわたり、前漢は毎年多額の財物を贈って匈奴による領土不可侵を保証される羽目となり、この間の両国関係は河南オルドスまで南下占領していた匈奴側優位と言ってよかった。匈奴はまた、…

もう一つの中国史(連載第8回)

三 北中国の混成 (2)騎馬遊牧勢力の台頭 北方・東北の遼河文明が衰退した後、後に漢民族として統一されていく黄河文明人が北方にも拡散していったと見られるが、さらなる北方から対抗勢力として立ち現れたのが、遊牧勢力であった。この勢力については、半…

日光街道宿場小史(連載第3回)

三 越ケ谷宿 (1)由来 平安時代に興った武蔵七党の一党である野与党が割拠した地で、平安時代から野与党一族の古志賀谷氏が定住、鎌倉時代に地頭に補任された記録もあり、元来は「古志賀谷」と表記したようである。 (2)開発史 戦国時代になると、越ケ谷…

日光街道宿場小史(連載第2回)

二 草加宿 (1)由来 地名としての文書初見は天正元年(1573年)のことで、戦国時代には成立していたことが窺える。語源については、砂地を意味する「ソガ」の転訛とする説がある。しかし「ソガ」を固有名詞と見るなら、古代豪族蘇我氏の地方所領に見ら…

日光街道宿場小史(連載第1回)

小序 日光街道は江戸幕府創始者・徳川家康を祀る日光東照宮へ参拝することを目的とする街道として、寛永十三年(1636年)に江戸 - 下野国日光間に開通した特殊な幹線道路である。 江戸時代に整備された五街道の一つに数えられるが、その特殊性から、日本…

ユダヤ人の誕生(連載第13回)

Ⅳ 捕囚と帰還・再興 (12)独立運動とハスモン朝 長いセレウコス朝シリア支配の時代、同朝第8代君主アンティオコス4世がエルサレム神殿で異教の祭儀を執り行うという冒涜行為を犯したとされることを契機に、前167年、モディンという小村の祭司マタテ…

ユダヤ人の誕生(連載第12回)

Ⅳ 捕囚と帰還・再興 (11)バビロン捕囚と帰還 南王国滅亡後のバビロン捕囚はユダヤ民族の滅亡をもたらさず、それどころかかえって民族的意識の高揚を結果することとなった。南王国の支配層はユダ部族であったから、ユダヤ民族とは厳密に言えばこの南王国…

ユダヤ人の誕生(連載第11回)

Ⅳ 捕囚と帰還・再興 (10)二度の捕囚 ユダヤ民族は、その歴史の中で二度にわたり外国によって集団的な捕囚の身とされる数奇な経験を持っている。その最初は北王国滅亡後の「アッシリア捕囚」(紀元前8世紀代)であった。 この時は南王国の一部住民と北王…

ノルマンディー地方史話(連載第17回)

第17話 海港都市ル・アーヴル ノルマンディー地方では、バイキング出自のノルマンディー公国が内陸のルーアンを首都に定めて以来、ルーアンが政治的・宗教的な中心地であった。しかし、公国の消滅後、16世紀に時のフランス国王フランソワ1世が新たに建…

シチリアとマルタ―言語の交差点(連載第10回)

九 シチリア王国支配と土着マルタ語 マルタでは、200年以上に及んだイスラーム勢力の支配をシチリアのノルマン人勢力が1091年に終わらせ、1127年以降はシチリア・ノルマン朝の支配下に入った。これはマルタにおけるある種のレコンキスタであり、…

外様小藩政治経済史(連載最終回) 

五 森藩の場合 (4)幕末廃藩 幕末の森藩は、第10代藩主・久留島通明が病弱のため、異例にも叔父の通胤[みちたね]に譲位した嘉永五年(1852年)に始まる。通胤の藩主就任翌年にペリーの黒船来航があったが、その際、通胤は対応について(外様)諸藩…

外様小藩政治経済史(連載第20回)

五 森藩の場合 (3)社会動向 森藩は小藩ながら、関ケ原の戦いの後、西軍派としていったん浪人していた瀬戸内出身の藩主家が幕府から赦され、わずかな家臣を率いて地縁のない土地に授封されたうえ、地元土豪を家臣団に組み入れて立藩されたという経緯のわり…

外様小藩政治経済史(連載第19回)

五 森藩の場合 (2)経済情勢 立藩経緯でも見たように、森藩は元来瀬戸内海の水軍勢力であった来島(久留島)氏が陸に上がり、江戸幕府から縁のない豊後に狭隘な領地を安堵されたものであり、入部当時は草木が茂る深林とわずか十数軒の民家があるのみという…

ロマニ流浪史(連載第3回)

二 もう一つのロマニ?:ドム民族 ロマニの起源論を錯綜させる要因として、今日でもエジプトを中心に北アフリカ・中東・西アジアに広く分散するドムと呼ばれる民族集団の存在がある。ドムもロマニと同様、印欧語族インド語派に属する言語(ドマリ語)を話し…

インドのギリシャ人(連載第3回)

Ⅱ インド・ギリシャ人王朝の成立 インド・ギリシャ人王朝が成立するきっかけは、ギリシャ系バクトリア王国の南侵と滅亡にあった。バクトリア王国は、インドにおけるマウリヤ朝の支配が揺らぎ始めた紀元前200年頃、当時のデメトリオス1世の下でインドへの…

白川郷内ケ島氏興亡物語(連載第1回)

一 内ケ島氏前史 岐阜の白川郷は今日、合掌造り建築で広く知られているが、埋蔵金伝説のある帰雲城も大震災の悲劇で知られるようになってきた。といっても、城は天正十三年(1586年)の天正地震に伴う土砂崩れで完全に崩壊・埋没し、その所在地も不明の…

土佐一条氏興亡物語(連載最終回)

七 土佐一条氏の「消滅」と「再興」 土佐一条氏第五代の一条内政が死去した後の土佐一条氏の動向は、にわかに不明確になる。内政には継嗣として政親がおり、彼が第六代当主となったとする説が存在するが、その実在性を明確に証する同時代記録は存在していな…

クルド人の軌跡(連載第5回)

二 クルド人の全盛 サラーフッディーンの天下取り 西洋社会でもサラディンと短縮転訛して記憶されているアイユーブ家のサラーフッディーンはキリスト教世界の第三回十字軍を撃退した功績で知られ、西洋社会でも最も歴史的な知名度の高いクルド人であるが、十…

シリーズ:失われた権門勢家(連載第5回)

五 ペルシャ皇室ササン家 (1)出自 皇室名称ササンは皇室家祖と位置づけられる人物であるが、その実像や系譜について確かな情報はない。比較的有力なのは、古代ペルシャ旧都ペルセポリス近郊イスタフルのゾロアスター教アナーヒタ神殿の神官だったとする伝…

もう一つの中国史(連載第8回)

三 北中国の混成 (2)騎馬遊牧勢力の台頭 北方・東北の遼河文明が衰退した後、後に漢民族として統一されていく黄河文明人が北方にも拡散していったと見られるが、さらなる北方から対抗勢力として立ち現れたのが、騎馬遊牧勢力であった。この勢力については…

もう一つの中国史(連載第7回)

三 北中国の混成 (1)北方文化の起源 今日の中国は、周知のとおり、北方の北京を首都としており、北に心臓部を持つことで確定しているが、北方は本来、漢民族の拠点ではなかった。先史時代の北方文化としては、20世紀初頭に日本人考古学者・鳥居龍蔵によ…

もう一つの中国史(連載第6回)

二 西南中国の固有性 (2)「秦滅巴蜀」から「屠蜀」まで 漢民族系では最西端に発祥し、次第に強勢化した秦は南の楚の征服を当面の目標に定めていたが、その際、長江沿いに並ぶ穀倉地帯である巴蜀の征服は楚への水路を確保し、攻略を優位に進めるうえで得策…

欧州超小国史(連載第6回)

Ⅰ サン・マリーノ至穏共和国 (5)伊統一運動と米南北戦争との関わり イタリアは(西)ローマ帝国の崩壊以来、小国分立の状態にあり、サン・マリーノもそうしたイタリアの中の特殊な由来を持つ小国の一つであった。しかし、19世紀に入ると、イタリアでは…

ノルマンディー地方史話(連載第16回)

第16話 探検家ラ・サールとルイジアナ 北欧バイキングによって領有・開拓されたノルマンディーはフランスの中でも特別な地域で、元来、冒険精神に富むところである。そのことは、フランス領として確定された後も、ノルマンディー人の新大陸に対する飽くな…

松平徳川女人列伝(連載第10回)

十五 天英院(1666年‐1741年) 天英院(本名・近衛熙子[ひろこ])は関白・太政大臣の近衛基熙の娘として生まれ、延宝7年(1679年)6月、当時はまだ甲府藩主であった徳川家宣(旧名・綱豊)に嫁いだ。この婚姻について、父の基熙はひどく不服…

私家版アイヌ烈士列伝(連載第3回)

三 チコモタイン(生没年不詳)/ハシタイン(生没年不詳) アイヌ烈士と言えば、和人勢力との戦いで活躍した武闘派人物に偏る傾向を否めないが、逆に、和人勢力との和平で功績のあった人物も一種の烈士に含めてみたい。そうした場合、1550年(異説あり…

アフガニスタン形成史(連載第2回)

一 パシュトゥン人の起源 複雑なモザイク多民族国家である現代のアフガニスタンで相対多数を占めるのは、パシュトゥン人である。といっても、アフガニスタンの人口割合では半分に満たない40パーセント台であり、人口数ではむしろ隣国のパキスタン側に多く…