歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

土佐一条氏興亡物語(連載第2回)

二 中村小京都の建設

 応仁の乱の際、京都の公家一条氏が土佐に疎開してきた経緯は初回に述べたが、一族の荘園であった幡多荘は古代には波多国造の支配地であり、古代以来、土佐の中心地として拓けていたと見られる。とはいえ、農村にすぎなかったこの地を小京都に整備したのが土佐一条氏であった。
 各地に疎開した公家が当地に京文化を持ち込んだ例は全国に多いが、物理的にも京都を模した碁盤の目上の条坊制都市の建設まで実行した例は珍しい。その凝った計画の立案者は、土佐一条氏始祖となる一条教房であったが、彼がこのような片田舎に小京都を建設しようと発案した動機は推測するしかない。
 かつて京で関白左大臣まで上り詰めた教房が生涯京へ帰還する意志がなかったとは思えないが、戦乱で消失した京の再建は容易でなかった。おそらく彼は京へ戻れないことも予期しつつ、自らの居館・中村館を築き、京都と地形の似ている幡多荘に京と類似の都市を作ろうと夢見たとしても不思議はない。
 残念なことに、中村小京都は1946年の南海大地震で壊滅し、復興事業の過程でも古い街並は再現されなかったため、夢の跡となっているが、今日でも条坊を特徴付ける碁盤の目の痕跡のほか、祇園、京町、鴨川、東山など、明らかに京都に見立てた地名を残している。
 こうした夢の小京都建設計画を支えたのは、彼が京から同伴してきた配下の公家や武士、文化人、職人ばかりでなく、地元土豪国人らの協力もあった。教房が没した時、彼の冥福を祈って国人十余人が仏門に入っている事実も、地元国人との絆を偲ばせる。また教房が疎開中、50歳を過ぎてもうけた次男房家の母も側近公家の町顕郷の養女となった地元土豪加久見氏の娘であった。
 しかし、教房は小京都の完成も房家の成長も見ることなく、応仁の乱終結から三年後の文明三年(1480年)、道半ばにして死没した。そのため、壮大な小京都建設事業は、地元に土着し、戦国大名に成長していった次男房家の手に委ねられることとなる。