歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

関東代官伊奈氏列伝(連載第2回)

一 伊奈忠次(1550年‐1610年)/忠政(1585年‐1618年)/忠勝(1611年‐1619年)

 
 伊奈忠次は、関東代官伊奈氏の初代に当たる人物である。彼は伊奈氏が信州から三河に移住して四世代目に相当するが、父忠家は嫡男ではなく、本宗家筋ではなかった。しかも、忠家は主君松平(徳川)家康に反抗した三河一向一揆に加わり、出奔するという反逆者であった。
 忠家・忠次父子は天正3年(1575年)の長篠の戦いで功を立て、家康の下へ帰参し、家康の嫡男・信康の家臣に付けられるも、信康が自害を命じられると、再び出奔することとなった。
 忠次がようやく徳川家臣として定着するのは、本能寺の変の後、家康の有名な伊賀越えに同行した功績で、帰参と旧領回復が許されてからである。その後の忠次は奉行や代官としての官僚的な職務で実力を発揮し、家康の関東入部後は、関東代官頭として江戸近郊の関八州直轄領の行政を委ねられた。
 彼の公共事業はすでに江戸開府前の豊臣時代から始まっており、入間川架橋や利根川支流の締切工事などに着手している。忠次の関ヶ原の戦いでの功績は主として兵糧輸送であったが、江戸開府後は譜代大名武蔵小室藩主)に列せられたのも、家康の高い評価を示している。
 ここには、封建的価値観からすれば断罪排除されておかしくない不忠者でも、その実務手腕を評価して取り立てるという家康の発想が滲み出ており、このような人材登用は、直接ではないにせよ、近代官僚制につながる芽と言えるかもしれない。
 忠次は開府後も、引き続き治水を中心とした公共事業を関東各地で主導し、忠次の官位「備前守」にちなんだ備前渠や備前堤等の運河や堤防が各地に残されている。その他、忠次は農政に関しても、検地・新田開発に加え、新たな作物の栽培普及など農民の収入増につながる改良策を講じ、早くも庶民派領主として民心を惹きつけている。

 忠次は大坂の陣を見ることなく、慶長十五年(1610年)に没したが、すでに父とともに活動し始めていた嫡男忠政は大阪冬の陣で外堀埋立の責任者を務めたばかりでなく、戦闘でも敵兵の首を多数取り、武将としても戦功を挙げたという。
 しかし、彼は短命で30代にして没し、嫡男忠勝がわずか8歳で後を継ぐ。ただし、幼少のため、枢要な実務職である関東代官職は叔父の忠治が継承することとなり、小室藩主と旗本級関東代官がここに分離された。
 この後、不幸にして忠勝も翌年9歳で夭折したため、ここに大名伊奈氏はわずか三代にて無嗣断絶となった。伊奈氏の名跡を惜しんだ幕府の配慮で、忠勝の弟忠隆が旗本級での存続を許されるも、これ以降、関東代官職は忠治の子孫が継承することとなるが、後代、忠隆系が養子で継承するなど、両家系は交錯する。