歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

関東代官伊奈氏列伝(連載第3回)

二 伊奈忠治(1592年‐1653年)

 
 伊奈忠治は関東代官初代忠次の次男として生まれたが、元和四年(1618年)の兄忠政の死後、小室藩主家を継いだ幼少の甥忠勝と分離する形で代官職を継ぎ、父兄の土木事業を継承した。忠治最大の事績は利根川付替え事業である。この事業もすでに父兄が先鞭をつけていたが、本格的な工事は忠治の代からである。
 一般に「利根川東遷事業」とも呼ばれるこの大掛かりな工事は治水事業と位置づけられているが、当初の主要目的は江戸時代初期、新たな首府として急速に水需要が高まっていた江戸への引水にあったとする見方も有力化している。
 実際、後から振り返れば、利根川付替えによって最も変化したのは、利根川を利用した水運であり、利根川は鉄路はもちろん、道路の整備も不十分な時代、東北に接続する関東近郊と江戸を結ぶ最大の物流路として確立された。
 他方、治水事業としても、利根川中流域に意図的な氾濫を引き起こさせるシステムは下流域の江戸を水害から防備することに重点があり、利根川流域間での利害対立を惹起する江戸至上の治水事業は、合理的というより政治的であった。
 ただ、宗家は譜代級徳川家臣という伊奈氏の立場からすれば、関東代官伊奈氏の役割は首府江戸の発展への奉仕にあり、そのための関東行政であったから、伊奈氏事業の意義を過大評価することには慎重であるべきなのであろう。
 とはいえ、忠治の代の利根川事業は江戸川開削、荒川西遷、鬼怒川分流などの今日まで続く重要な成果を生んだ。平成大合併でつくばみらい市に統合されるまで茨城県に存在した伊奈市も忠治にちなむ自治体であり、合併までは伊奈氏にまつわる近代自治体が長野・埼玉・茨城と三県にまたがって所在していたことになる。
 忠治は最晩年にも水道奉行として、江戸の上水道整備のため計画された玉川上水の開削指揮に当たることになったが、間もなく死去し、後は嫡男の忠克に委ねられた。
 ちなみに、近年の史料批判的研究で、従来「関東郡代」と呼ばれていた伊奈氏の職称は忠治時代からの私称であり、正式の「郡代」は18世紀末の伊奈氏改易後の職制改正で初めて設置されたもので、伊奈氏時代にはあくまでも「代官」にすぎなかったことが指摘されている。
 このことは、忠治が30年以上の奉職と業績で、関東代官伊奈氏の地位を確立し、広域支配の代官を意味する「郡代」を私称するほど広い権勢を誇ったことを示していると言える。ただ、このような権勢はやがて、幕府中枢にある種の警戒心や嫉心を生み、改易の伏線となった可能性はある。