歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

関東代官伊奈氏列伝(連載第4回)

三 伊奈忠克(1617年‐1665年)/忠常(1649年‐1680年)

 
 伊奈忠克は、先代忠治の嫡男として関東代官職を継承した。前回も見たとおり、関東代官伊奈氏は父忠治の代で確立され、「関東郡代」を私称するまでに強勢化していた。忠克はそうした伊奈氏全盛期に関東代官職を継いだのだった。
 彼の任務は父がやり残した事業の継承にあった。特に歴史的大事業であった利根川付替えである。この事業では、利根川香取海をつなぐ水路として期待されながら、通水で難儀し、失敗を繰り返していた赤堀川の開削に成功したのが忠克の継承直後の承応二年(1654年)のことであった。
 最終的に付替え事業が一段落したのは、忠克自身の死の寛文五年(1665年)である。しかし、下流に洪水を引き起こす利根川の水位引下げのため、追加工事を必要とし、霞ヶ浦へ注ぐ新利根川の開削にも着手しており、これが完成したのはようやく忠克の死の翌年のことであった。
 利根川以外の事業としては、やはり父が最晩年に水道奉行を拝命していた玉川上水の開削がある。もっとも、この事業の請負人は農民出自と思われる庄右衛門と清右衛門の玉川兄弟であり、二度にわたる引水の失敗を挽回したのは設計技士の川越藩士安松金右衛門であり、伊奈氏の影は薄い。
 ちなみにここで川越藩士が登場するのは、玉川上水の総奉行を務めたのが川越藩主兼老中の松平信綱だったからである。信綱は父の大河内久綱伊奈忠次配下の代官を務めていたという縁からか、信綱自身、川越藩主として用水路や街道整備に尽くした土木大名であり、天領部を所管する伊奈氏と並んで江戸近郊の農業開発に寄与している。
 利根川・玉川の上記二事業はまさしく父の事業の継承案件であったが、忠克独自の案件としては、日本三大用水の一つに数えられている葛西用水路及びその補完水利施設としての琵琶溜井の開削がある。伊奈氏のこうした治水機能を兼ねた用水技術は、広大ながら湿地帯のため水害に見舞われがちな関東平野における農業生産力の発展に寄与したと評されている。
 忠克は父忠治ほどは生きず、その死後は嫡男の忠常が継承したが、その時点ではまだ十代であった。忠常は父・祖父ほど名を残しておらず、自身30代で没しているが、15年ほど務めた代官職は大過なく全うしたようである。