歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

関東代官伊奈氏列伝(連載第5回)

四 伊奈忠篤(1669年‐1697年)/忠順(?‐1712年)

 伊奈忠篤・忠順〔ただのぶ〕兄弟は先代忠常の息子たちであり、父の没後、相次いで関東代官を世襲した。同時に忠篤の代からは、金森氏の領地だった飛騨高山藩が廃され、天領化されたことに伴い、飛騨代官を兼任することとなった。
 飛騨地方は木材資源や鉱物資源が豊富なことに着目した幕府が財源確保のために天領化したと言われるが、伊奈氏が縁のない飛騨の行政まで任されたことは、当時、伊奈氏の代官としての手腕が幕府からいかに信頼されていたかを示す人事である。
 ちなみに、関東代官伊奈氏の本拠であった赤山陣屋は残されていないのに、飛騨代官時代に伊奈氏が改修整備した高山陣屋代官所としては全国で唯一保存されているというのも皮肉である。ともあれ、伊奈氏は忠篤から忠順、さらに忠順の養子・忠逵の三代にわたり、飛騨代官を兼任し、天領化された初期の飛騨の管理をこなしたのであった。
 ところで、忠篤晩年の事績として元禄八年(1695年)の質地取扱の覚による農政転換のきっかけを作ったことがある。これは従来、田畑永代売買禁止政策により富農形成を阻止していた幕府が田畑の質流れを実質上認めたものであった。
 この時、忠篤は代官として扱った具体的な法的事例を挙げて、質流れを認めない場合の不都合を勘定所への質問状の形で間接的に指摘し、それに対する幕府の通達回答が上記覚えである。これはその後、享保改革期に一時撤回されるも、最終的に定着した新政策であり、結果的に田畑永代売買禁止政策は転換されたのである。
 質地取扱の覚から二年後に29歳で没した忠篤に嫡子はなく、後を継いだのが弟の忠順である。彼の時代は元禄時代、5代将軍綱吉の治世後半期であり、忠順最初の業績も、綱吉の50歳記念事業としての永代橋架橋であった。
 しかし、忠順時代最大の出来事は、宝永四年(1707年)の宝永大地震に伴う富士山大噴火である。麓の小田原藩が壊滅的打撃を受けたため、幕府は一時的に被災地を天領化し、忠順を災害復旧担当の砂除川浚奉行に任じた。ここにも、伊奈氏に対する幕府の高評価が表れている。
 忠順は、火山灰が流れ込んだ酒匂川の浚渫工事などに地元の被災農民を動員し、失業対策事業としたほか、被害が最もひどく、後年まで伊奈代官支配地とされた駿東地域の復興に注力した。しかし、復興半ばにして、死去してしまう。
 この死亡については、被災者救援の策を講じない幕府に業を煮やした忠順が無断で幕府の米蔵を開き、被災者に救援米を配給したことの責任を取らされ、切腹したとの伝承があり、地元には忠順を顕彰する伊奈神社まで建立された。
 切腹の真偽はともかく、復興代官としての忠順の奮闘ぶりは地元民の間でも伝説化するほどであったのだろう。富士山大噴火という歴史的大災害にあって、「庶民派」代官としての歴代伊奈氏の伝統が存分に発揮されたと思われる。