歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

関東代官伊奈氏列伝(連載最終回)

八 伊奈忠尊(1764年‐1794年)/忠善(1773年‐1807年)

 
 伊奈忠尊〔ただたか〕は、子沢山な備中松山藩主板倉勝澄の十一男として生まれ、先代関東代官伊奈忠敬の婿養子となった。三河に発祥した板倉氏は足利氏流を称する古くからの徳川譜代であり、大名板倉家の祖となる板倉勝重徳川家康の信任厚く、関東代官や江戸を含む各地の町奉行を歴任し、数々の名裁きの逸話を残す有能な武家官僚の元祖的存在であった。
 そうした経緯からも、板倉氏は伊奈氏継承者にふさわしい家柄と思われたようである。そのまま忠敬に実子が生まれず、婿養子の世襲が確定していれば大過なかったはずのところ、忠敬には晩年、側室との間に忠善という実子が生まれていた。このことが、伊奈氏の運命を大きく変えることになる。
 忠尊自身は、手腕家というよりは情熱家だったようである。彼を有名にしたのは、天明の大飢饉に端を発する天明の打ちこわしの際の行動である。江戸から発したこの全国規模の騒乱に際し、忠尊は幕府から借財してまで米を自ら購入し江戸市中に放出するという非常手段で事態を沈静化させたのである。
 江戸の困窮者救済は、本来都庁に相当した町奉行の管轄であるが、この時、忠尊は本来の官僚的な役方を越えて軍事的な番方の小姓番頭に昇格したうえ、町方の救済を幕府から命じられている。幕府がこうした変則的対応に出たところにも、伊奈氏の功績と大衆的人気への信頼があったと考えられる。
 それにもかかわらず、忠尊が関東代官伊奈氏としては最後の人物となってしまった最大の要因は、養子にしていた義弟忠善との確執にあった。忠尊にも側室との間に実子が生まれたことに加え、幕府からの借財の返済時期を巡り幕府と争いになったことをきっかけに、忠尊の隠居と忠善への家督移譲を主張する家臣団との対立が生じ、忠善が一時比叡山へ出奔する事態となったのだ。
 忠尊は重臣を罰したが、対抗的に家臣団が幕府に事態を告発したことで、幕府は忠尊を勤務中不行跡(借財の件か)及び家中不取締(お家騒動)の理由で改易とし、所領没収・陣屋破却のうえ、忠尊は八戸藩預かりという厳しい処分を下したのである。この決定により、200年近く続いてきた関東代官伊奈氏はあっけなく終焉してしまう。
 時は寛政四年(1792年)、松平定信による寛政改革の末期に当たる。伊奈氏改易に定信が関与したかどうか不明であるが、すでに定信の基盤も揺らぎ、「改革」が終わりかけていた頃のことで、重農主義的な民生重視で重なるところもあった伊奈氏の失墜と翌年の定信の老中辞職(事実上の解任)の関連性は考慮に値する。
 また、出奔した忠善を連れ戻した大和郡山藩主柳沢保光の何らかの家政介入もあったかもしれない。保光は柳沢氏から養子に入った先代忠敬の甥に当たり、忠善とも従兄弟関係にあったため、忠善派と見られるからである。いずれにせよ、忠善の家督継承も否定され、彼もまた保光の下で蟄居を命じられた。
 その後、領民に好かれた伊奈氏らしく、旧領民らによる赦免願いが出されるも、忠善が一部赦免され、江戸の柳沢家藩邸に移されるにとどまった。ただし、忠善没後、伊奈忠治三男の子孫に当たる忠盈〔ただみつ〕が伊奈氏名跡の継承を許されるも、所領は秩父常陸の飛び地計1000石の小普請組旗本という閑職にすぎなかった。
 伊奈氏改易により、その管轄下にあった広大な天領勘定奉行と代官の分割管理となり、これ以降、伊奈氏の私称でない正式の関東郡代職が置かれるようになったとされる。こうして、大衆的人気も誇った武家官僚たる関東代官伊奈氏の歴史は終わるが、それは同時に幕末へ向け、幕府自体が揺らぎ始める前夜に当たっていた。おそらく、封建的幕藩体制から近代官僚制へ向けた胎動が始まっていたのである。