歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

高家旗本吉良氏略伝(連載第1回)

 
 すでに二日過ぎてしまったが、周知12月14日(旧暦:西暦では1月30日)は有名な赤穂浪士討ち入りの日である。本連載の主人公となる吉良氏は赤穂藩浅野内匠頭長矩が高家旗本吉良上野介義央を江戸城中で斬りつけた刃傷沙汰を契機とする一連の事件の被害者側ながら、ほとんど悪役扱いされてきた存在である。
 その図式は事件を題材とした多数の文学・演劇作品の影響でほぼ固定化しているせいか、吉良氏の系譜について改めて考察するような風潮は乏しい。そこで、本連載では様々に考察されてきた赤穂事件そのものからは視点をずらし、事件の被害当事者である高家旗本吉良氏の系譜をたどってみることにする。
 吉良氏は元来、室町将軍家足利氏の庶流に当たる「名門」であり、松平=徳川氏と同様に三河に所領を持った武門だが、松平=徳川氏よりはるかに格式ある一族であった。それが徳川時代には大名に取り立てられることなく、旗本にとどまった理由については後に考察するとして、この一族の特徴は歴史的に波乱・浮沈が激しいことにある。最終的に、討ち入り事件を機に改易され、滅び去ったのも、吉良氏の宿命だったかもしれない。
 ところで、吉良氏が徳川時代に就いていた高家旗本とは幕府の儀典を司る上級の旗本であり、これには吉良氏のように格式あるが大名には取り立てられなかった一族が多く列せられていた。そのため、高家は石高ではせいぜい数千石の存在ながら、名誉ある地位であり、中でも吉良氏は足利氏に連なるその由緒からか高家筆頭格として権勢を誇っていた。
 その点、先に連載で取り上げた関東代官伊奈氏とはまた違った意味で実務官僚的な性格を帯びており、同時に儀典担当という職掌から朝廷との関わりも深いある種の公家的なプライドも持った独特な地位にあったのが吉良氏である。そうした複雑微妙な地位が悲劇の一因ともなったであろう。
 ちなみに、事件の加害者側の赤穂藩主家浅野氏も、足利氏と同様に―とすれば、吉良氏とも同祖―清和源氏系の土岐氏を祖とする一族を称していたが、織田氏の弓衆を務めていた浅野長勝以前の系譜は不確かで、かつ大名浅野氏の実質的な祖である浅野長政は家臣安井氏からの婿養子であった。そのうえに、赤穂藩主家浅野氏は40万石広島藩主家浅野氏の分家であり、石高も本家に遠く及ばない5万石の中小大名であった。
 こうして栄誉あるも身分は旗本吉良氏と中小ながらもれっきとした大名浅野氏の運命がある時点で交錯してしまったことが赤穂事件の悲劇を招いたと解釈されるのであるが、本連載では事件の解釈そのものには直接踏み込むことなく、あくまでも吉良氏の系譜を通して悲劇の要因を浮かび上がらせることに主眼を置いてみたい。