歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

高家旗本吉良氏略伝(連載第2回)

一 吉良長氏(1211年‐1290年)/貞義(?‐1343年)

 
 吉良氏は、後の室町将軍家となる足利氏3代目当主足利義氏庶子を家祖とする分家であるが、庶長子長氏に始まる三河吉良氏と別の庶子義継に始まる奥州(武蔵)吉良氏の二大系統に分かれている。近世に赤穂事件の被害当事者となる上野介が出たのは、前者の三河吉良氏の系統である。
 この三河吉良氏の開祖が長氏である。彼は長男ながら庶流ゆえに宗家の家督を継ぐことはできないという封建的制約から分家させられたものである。吉良という姓は領地として安堵された三河吉良荘に由来するが、当地は和語で「きらら」という雲母の産地であったことから、吉祥漢字を当てて「吉良」と命名された経緯があると伝わる。
 分家とはいえ、長氏は10代の頃から頭角を現したようで、鎌倉幕府摂家将軍藤原頼経の随兵や使者等、将軍近侍者としての働きがしばしば記録されている。ただ、全般に政治的というより儀礼的な役割が多く、このことは近世吉良氏が儀典担当の旗本として取り立てられたことの伏線かもしれない。
 記録上は、仁治二年(1241年)を最後に動静が途絶えるが、その後も50年近く無事長生しているところを見ると、三河の領地へ戻り、地頭職に専従したものと思われる。この間、息子の満氏(?‐1286年)に家督を譲ったと見え、建長年間から長氏に代わって満氏の動静が伝えられるようになる。
 ところが、満氏は弘安八年(1285年)、鎌倉で勃発した霜月騒動に巻き込まれ、戦死してしまう。霜月騒動内管領平頼綱が当時幕府の実権を掌握していた有力御家人安達泰盛一派を攻撃し、権力を奪取したクーデター騒動であるが、この時、満氏は泰盛派として戦い、敗死したのである。
 騒動の結果、頼綱政権が成立したことから、吉良氏は敵方としてしばらく閉塞したようである。この間に、長氏は満氏の遺子で孫の貞義に家督を譲った。吉良氏が再浮上するのは、執権北条貞時が恐怖政治を敷く頼綱を新たなクーデターで打倒した正応六年(1293年)以降のことと見られる。記録上は元亨三年(1323年)、貞時の息子高時が挙行した父の十三回忌供養に貞義が参列したことが確認される。
 その後、10年を経て、足利宗家の高氏(後の尊氏)が倒幕を決意した際、貞義は高氏から意見を求められ、「遅すぎたほど」と全面的に支持、高氏の背中を押す役割を果たした。こうした態度からすると、貞義は北条氏の鎌倉幕府にはとうに見切りをつけていたものと思われる。
 しかし、貞義はすでに高齢に達していたと見え、倒幕運動に直接加わることなく、高氏支援は息子の満義に委ねられることになる。後の室町時代に吉良氏の地位が向上するのは、足利一門であることに加え、こうした倒幕に際しての精神的・軍事的寄与のゆえもあっただろう。