歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

外様小藩社会経済史(連載第1回)

序説

 
 徳川幕藩体制は、中世以来の武家支配に基づく日本型封建制を土台としながらも、自身も封建領主の一人であった徳川氏を頂点とする幕府が全国の領主を臣従させつつ、一方的な移封や収公(改易)の権限を含む中央からの強い統制力をもって封土を政策的に配分・安堵し、その封土内では幕府の法度に触れない限り内政自治を認めるという独異な体制であった。
 その際、幕府は開府の発端となった関ヶ原の戦いにおける論功を基準としつつ、可能な限り多数の功臣を大名として処遇しようとした。このような論功行賞主義は、天下分け目の大戦を経た徳川幕府発足初期の安定性を確保するための幕府の政略であった。
 その結果として、大名の数は開府当初から200人近くに上り(その後、さらに増加)、表石高でも大名最低基準である1万石ぎりぎりか若干の上乗せにとどまる狭隘な封土に閉じ込められる小藩も全国に多数成立することとなった。2万石未満という基準で見ると、この規模の小藩が全国でも最多を占めていた。
 単純に比較化はできないが、貴族制に基づく西洋封建制であれば、このような小領地の安堵にとどまる領主は、爵位のない騎士階級にとどまったはずのところ、論功を重視する武家支配型の幕藩体制ではそうした小領主も大名として処遇されたのであった。
 もっとも、一口に大名といっても、実際は最高位の国主を筆頭に、準国主 - 城主 - 城主格 - 無城という五階級が区別されたので、これが貴族制下の爵位に相当するような事実上の階級的尺度ではあったと言えるかもしれない。1万石程度の最低ランク大名は、無城が原則であった。
 これら無城小藩の多くは、当然にも徳川将軍家との縁が薄いいわゆる外様大名に多かったが、旧来の家臣である譜代大名にも見られた。外様の場合は、幕府の役職から遠ざけられつつ、負担の重い参勤交代義務を履行し、領地は自治的に経営しなければならないから、外様小藩はいっそう経営難となることは必然であった。
 統制的な幕藩体制の特色として、一国一城令に基づき、城主大名となれるのは一部に限られ、1万石程度の小藩では後で見る苗木藩を例外として城を持てなかったから、そうした小藩主らは城主大名なら領国経営の中心地とする城下町も厳密な意味では建設できず、せいぜい「領主町」(陣屋町)であった。
 そのような制約を受けながらも、開府当初から明治維新まで存続を保った小藩も見られる。本連載では、そうした小藩のうち、立地条件の異なる特徴的な五つの藩をピックアップして、その社会経済の変遷を事例研究的に検証する。
 検討対象とするのは苗木藩・福江藩・谷田部藩・狭山藩・森藩の五つであるが、これら五藩はいずれも外様で、しかも開府当初から明治維新に至るまで、一つの家系が転封されることなく、一貫して統治したという共通性を持つ。その点で小藩の中でも稀有の存在であるが、そこにはどのような秘訣が備わっていたのか、様々な角度から比較検証を加えていきたい。