歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

高家旗本吉良氏略伝(連載第3回)

二 吉良満義(?‐1356年)/満貞(?‐1384年)

 
 吉良満義は、先代貞義の子として、足利尊氏に倒幕を勧めた高齢の父に代わって尊氏の挙兵に加わり、京都六波羅探題攻略を助けた。後醍醐天皇による建武新政開始後は尊氏の弟直義の最側近として鎌倉へ下るが、これが吉良氏の命運を揺さぶることとなる。
 尊氏・直義が協力していた間は良かったが、室町幕府成立後、両者が対立した観応の擾乱が勃発すると、満義は直義方に付き、尊氏とは対立する。満義には嫡男満貞があり、父子は尊氏挙兵時から共闘し、観応の擾乱でもその関係は変わらなかった。
 直義急死後の父子は南朝方に付いて尊氏と対立を続けるも、やがて満義は北朝に帰順し、正平十一年(1356年)に没した。一方、父と袂を分かった満貞は引き続き南朝で活動したが、結局は帰順した後、訟務を担当する引付衆筆頭の引付頭人の要職に就いた。
 こうして幕府内では無事地位を回復した吉良氏であるが、家内では満義の没後、重大な分裂が生じていた。満貞が帰順する以前、吉良氏の被官らは一族の将来を案じ、満貞の幼い弟尊義を擁立し、分家東条吉良氏を立てたのであった。
 吉良荘東条は従来、遠縁の吉良貞家の領地であったが、貞家が奥州管領として奥州へ下向・土着した後(奥州吉良氏)、三河吉良氏のものとなっていたところを尊義派が事実上押領したものであった。これを不服とする満貞派との間で戦闘が起きるも間もなく和議が成立、以後の吉良氏は戦国時代に至るまで満貞流西条吉良氏と尊義流東条吉良氏とに分裂することとなる。
 このような早期の一族分裂は、吉良氏の武家としての勢力を弱体化し、室町時代から戦国期にかけて、さらに家運が傾いていく契機とならざるを得なかっただろう。とはいえ、西条吉良氏は、吉良氏本流として足利将軍家「御一家」という家格は維持していくのである。