歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

外様小藩政治経済史(連載第2回)

一 苗木藩の場合


(1)立藩経緯
 苗木藩は、初代藩主遠山友政が徳川家康から現在の中津川市苗木を所領として安堵されることによって成立した。遠山友政が出自した苗木遠山氏は、平安時代前期の貴族武将藤原利仁を遠祖と伝える美濃遠山氏の分家である苗木遠山氏である。
 もっとも、藤原氏裔というのは、近世大名家によく見られる出自脚色の可能性もあり、異説として平氏裔とする説も存在するように、遠山氏の正確な出自の特定は他の近世大名家と同様に困難である。
 いずれにせよ、苗木は14世紀代から遠山氏の領地となり、16世紀中頃までには苗木城が築城された。以来、苗木城が苗木遠山氏の居城となる。三男だった友政は武田氏との戦で長兄は武田氏と内通(後に織田信長により処刑)、次兄は討ち死にという状況下、繰り上がりで苗木遠山氏の家督継承者となった。
 しかし、1583年にライバルだった美濃森氏との戦に敗れると、友政は投降せず徳川家康の下に走り、家康配下の菅沼定利の家来となった。以後、友政は家康の陪臣として徳川勢の一員となり、関ヶ原の戦いでは家康の命により、当時西軍派に占領されていた苗木に派遣され、その奪回に成功した。
 この関ヶ原の戦いの一幕としての東濃の戦では、友政を含む同地域の旧領主らが派遣されて奪回に成功し、かつ後の2代将軍徳川秀忠中山道経由の参陣を大いに助けたことから、戦後の論功行賞では旧領主の失地回復安堵が認められた。
 友政の苗木領回復もそうした論功行賞の一環であった。家康の論功行賞では旧領とは別の領地へ異動させて安堵するという領地替えもかなり採られていた中、苗木遠山氏の場合は、故地をそのまま安堵され、以後一度も転封されることがなかった点で異例である。
 しかも、わずか1万石の小大名でありながら城持ちが許されている。このような破格厚遇の理由は定かでないが、実のところ、苗木城は「城」とはいうものの、木曽川岸の狭隘な丘陵に自然石をそのまま取り込んで石垣を築いた独異な山城であり、城壁も赤土がむき出しだったと伝えられる。
 大大名が築いた大規模な城郭に比べれば、苗木城は中世山城の趣きを残した陣屋に近い小城塞であった。とはいえ、苗木藩は徳川全時代を通じて、1万石級で唯一の城持ち大名の支配するところとなったのである。
 ちなみに、友政は立藩後も、60歳近い体で二つの大坂の陣に参陣し、夏の陣では敵の首級を二つ取る武勲を挙げたというほど、徳川氏に忠誠を誓っている。こうした初代の一環した忠義は幕府方にも記憶され、以後、苗木藩の安定につながったかもしれない。