歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

高家旗本吉良氏略伝(連載第4回)

三 吉良義尚(1414年‐1467年)/義真(1422年?‐1481年)

 
 吉良義尚・義真の兄弟は、西条吉良氏の祖となった満貞の孫に当たり、父俊氏は内裏警護を任務とする武者所長官職にあったことから、息子たちも若くして優遇されたようである。西条吉良氏の最盛期は、応仁の乱前の義尚・義真兄弟の時代だったかもしれない。
 この時代、吉良氏は渋川氏や石橋氏とともに室町将軍が欠けたときには将軍を出す可能性もある「御一家」として高い権威を持つようになっていた。中でも吉良氏は足利将軍家に最も近い家格として、管領職より上位に位置づけられるほどの地位を誇った。
 しかし、こうした権勢も応仁の乱を境に傾いていく。応仁の乱では、兄義尚から家督を受け継いで時の西条吉良氏当主となっていた義真は東軍に付いたが、東条吉良氏側は西軍に付き、東西吉良氏の対立が決定的となった。
 応仁の乱は、元来所領三河においても守護大名としての支配に至らず、荘園領主的な性格にとどまっていた吉良氏の地元における権威の失墜を促進したと考えられる。それを象徴するのが、応仁の乱の渦中、三河に起きた額田郡一揆である。
 額田郡一揆とは寛正六年(1465年)、三河国額田で吉良氏配下の国侍たちが吉良氏の統制を離れて自立化し、幕府にも反抗して集団で乱暴狼藉を働いた一件であり、幕府政所執事伊勢氏の命で乱の鎮圧に功績を上げたのが当時台頭していた新興の土豪松平氏信光)や戸田氏であった。
 その功績で松平氏は西三河、戸田氏は東三河に所領を安堵され、三河における新興領主として飛躍する土台を築いた。また同じく鎮圧に参加した駿河を領する吉良氏分家の今川氏も台頭し、宗家吉良氏を脅かすようになる。戦国期の吉良氏は斜陽化しただろう。