歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

外様小藩政治経済史(連載第3回)

一 苗木藩の場合

(2)経済情勢
 苗木藩が領した苗木は、遠山一族が代々領地としてきた恵那郡の一部にすぎない狭隘な地であった。恵那郡自体は美濃国で最大面積を擁する広大な領域であるが、江戸時代には幕府領のほか、旧領回復した同族明知遠山氏の旗本領があり、歴史的に遠山氏の拠点だった岩村にも譜代の大給松平氏が配され、残余は親藩の大大名尾張徳川家の領地とされるなど、分割されてしまっていた。
 特に恵那郡内でも、中山道45番目の中津宿を中心とした地域から離れていることは経済的に不利であった。近代には、中津町(現中津川市)から北恵那鉄道という私鉄が伸びるようになったとはいえ(1978年廃線)、馬車すら存在しなかった日本近世には中津方面との連絡は円滑でなかった。
 このように周辺を譜代や親藩で固められつつ、辺鄙な苗木と隣接する加茂郡の一部を合わせてようやく大名最低基準の1万と500石というのが苗木藩の経済規模であった。当然にも、経済的な基盤は立藩当初から脆弱であった。しかし、小藩ながら異例の城持ちのため、居城の維持管理にも出費を要したうえ、歴代藩主が幕府の覚えめでたく、各種の番役や普請に召し出される機会が多かったことも財政難を構造化させた。
 最初の改革の試みは、3代藩主遠山友貞によって行なわれた。彼は新田開発を奨励、罪人による入植という奇策によって開墾を行い、農地を殖やした。しかし、一方で武家官位を得るため、多額の金品を皇室に献上するなどの交際出費から、改革の成果は上がらなかった。
 その後、歴代藩主は厳格な倹約令で緊縮財政を目指すも、藩主自身の召し出しによる出費で相殺されるので、効果はなかった。そのうえ、末期養子であった7代遠山友央の藩主就任に際して、兄の先々代5代藩主遠山友由から分知されていた500石を末期養子認可の代償として幕府に返上したため、表石高も減少する始末であった。にもかかわらず、友央は石高減少の責任を感じてか倹約令を緩和しているため、財政難の解決は不可能であった。
 最後の藩主となった12代遠山友禄は五種類の藩札発行という奇策で対応したが、自身若年寄の要職に抜擢され、長州征伐への参陣もあり、これも効果なしであった。結果、明治維新時点での藩の負債は14万3千両、藩札1万5900両に達していた。そのツケは、版籍奉還後の過酷な整理策として現れた。
 すなわち、藩士卒全員を帰農、家禄奉還させ家禄支給を削減したうえ、帰農法に基づいて旧士族に政府から支給される扶持米を三年間返上させる代わりに、友禄側も家禄全額を窮民救済と藩の経費とすることにより補償しようとしたが、新設された岐阜県への吸収合併という明治政府の施策に阻まれ、失敗した。
 かくして、苗木藩はその立藩から廃藩に至るまで、その領地の狭隘さのために終始一貫して財政難に苦しむ結果となったのであるが、このようなことは外様小藩の典型的な軌跡であった。しかし、歴代藩主は比較的善政を敷き、明らかに暗愚の藩主は出なかったため、苦しいやりくりで藩の財政経済をどうにか幕末まで維持し得たと評することができるだろう。