歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

外様小藩政治経済史(連載第4回)

一 苗木藩の場合

(3)社会動向
 小藩を絵に描いたような苗木藩が終始財政難に苦しみながらも明治維新まで存続していった秘訣として、廃藩期を除けば、藩内社会の安定性が保たれていたことが挙げられる。封建統治の安定性の鍵は、農民が大多数を占める領民との関係性を良好に保つことにある。
 その点、藩祖である初代の遠山友政は立藩時から農民との関わりが深かった。すなわち、一度は美濃森氏に奪われていた領地を奪回したいわゆる東濃の戦いの際、苗木の農民数百人を動員して戦力としたのである。この戦いではもちろん徳川家康からの支援も大きかったが、友政が農民を動員できたのは、農民からの信頼の証であっただろう。
 このように、苗木藩は立藩そのものに農民が大きく寄与するという歴史を持っていることが特徴である。これはおそらく、苗木遠山氏が14世紀という古い時代から数百年にわたりこの地を領した地元密着型の土豪領主であってこそ可能となったことであろう。
 その後も財政難が恒常化する中、苗木藩では百姓一揆がなく、対農民関係は良好だったと見られる。これも山間の小藩のため、領主と領民の社会的な距離が大藩に比べ短く、領主側も領民の動向を把握しやすいというメリットが作用したのであろう。
 封建統治のもう一つ要は、言うまでもなく家臣団の統制である。その点、小藩の家臣団は当然にも小規模であるが、1万石の苗木藩では中期の享保七年の記録でも、上級家臣の給人はわずか25人、最下級の徒士でも64人、総勢127人という陣容であった。
 小藩ではこれだけの家臣団を養うだけでも一苦労で、享保年間の歴代藩主は厳格な倹約令をたびたび発布しなければならず、元文年間の記録でも知行米の遅配が記されている。後期の天保年間には給米全額の借上に追い込まれた。とはいえ、ここでも地元密着型土豪の利点で、家臣団は忠実な古参で固められていたから、明治維新までお家騒動のような事態は発生しなかった。
 他方で、4代友春や10代友随は藩内の不正取締りや風紀粛正などの規律維持にも気を配っており、藩内の社会秩序は、藩史を通じて高水準で保たれていたと考えられる。苗木藩が長い安定から混乱に転じたのはむしろ明治維新後のことであったが、これについては項を改める。