歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

ノルマンディー地方史話(連載第4回)

第4話 モン・サン‐ミシェル修道院

 
 モン・サン‐ミシェルは元モン・トームと呼ばれたおそらくは古代の墓地に由来する霊場であったが、6世紀という中世初期からキリスト教の修道士や隠者にとっての霊場として発展し始めたようである。
 この地は709年の津波によって侵食されて島となった後、アブランシェのオーベール司教が大天使聖ミカエル(サン‐ミシェル)の礼拝堂を建立した縁から、モン・サン‐ミシェルと呼ばれるようになる。以来、この地はフランスにおける有力なキリスト教聖地となる。
 特にカール大帝が聖ミカエルを帝国守護者としたことで、モン・サン‐ミシェルは世俗的な支持も獲得する。しかし、カール大帝の没後、まだキリスト教化されていなかったバイキングの侵入により、モン・サン‐ミシェルも破壊的な影響を蒙り、修道士たちは逃亡していった。

 
 こうした状況を変えたのは、ノルマンディー公家創始者のロロであった。彼はサン‐クレール‐シュル‐エプト条約を締結した後、キリスト教に改宗したが、その印としてモン‐サン‐ミシェルの再建を支援したのである。ロロの改宗は多分にして政治的な動機によるものだったと考えられるから、モン‐サン‐ミシェル再建事業もキリスト教が根を張った当地で封建領主として定着するうえで有益な貢献と計算してのことだったのだろう。
 動機はともあれ、モン・サン‐ミシェルは突如としてノルマンディー公の宗教的拠点となり、これはロロの子孫によっても継承されていくのである。結果として、かつて秘境的な聖地だったモン・サン‐ミシェルの修道士たちも世俗的かつ政治的になっていく。

 
 政治化したモン・サン‐ミシェルはノルマンディー公のみならず、ブルターニュなど周辺諸侯からの競争的な寄進により富を蓄積していき、豪奢な生活に浸るようになっていった。このような典型的にキリスト教封建的な癒着状況に改革のメスを入れたのは、ロロの孫であるリシャール1世である。
 リシャールは父ギヨーム長剣公―彼はモン・サン‐ミシェルへの援助を拡大していた―の横死後、一時失われたノルマンディーを取り戻した後、堕落していたモン・サン‐ミシェルに新たな性格付けを与えようとした。すなわち、「服従・清貧・純潔」の厳格な規律を持って知られるベネディクト会系修道院として改革しようというのである。

 
 しかし、既得権益を護持しようとするモン・サン‐ミシェル側がこうした介入に反発すると、リシャールは改革派のローマ教皇ヨハネス13世や西フランク王ロタールの支持を取り付けつつ、周辺諸侯の承認の下、配下を派遣してベネディクト化を強制施行するという策に出たのである。
 この時、従わない者は去るよう要求されると、ただ一人修道院長だけが残留した。モン・サン‐ミシェルが正式に修道院となったのはこの時、966年のことであった。こうして、リシャールはモン・サン‐ミシェルの政治的統制に成功したのである。
 ちなみに、修道院の最初の本格的な建築はリシャール1世を継いだリシャール2世がイタリア人の修道士兼建築家グリエルモ・ダ・ヴォルピアーノを招聘して設計させたものである。