歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

ノルマンディー地方史話(連載第5回)

第5話 「善良公」から「悪魔公」へ

 
 50年以上在位し、ノルマンディー公国の土台を確立したリシャール1世が996年に世を去ると、同名の息子リシャール2世が後を継いだ。彼は1世の後妻で森林監督官の娘グンノールとの間に生まれた子であった。そのため、公位継承時にはまだ年少であり、最初の5年間は叔父のイブリー伯ラウールが摂政を務めた。
 この摂政期最大の出来事はまさに初年996年に勃発した農民反乱であった。先代の死を待っていたかのように起こされたこの反乱は、1世時代に整備された封建制の下での重税や封土内での狩猟特権などの改革要求を掲げていた。しかも、地方組織と中央組織とを持つ極めて組織だった反乱であった。
 しかし、この反乱は摂政ラウールの指揮により、武力鎮圧された。首謀者は捕縛後、手足を切断された。失敗したとはいえ、この反乱により、ノルマンディー公国は西洋最強の封建国家でありながら宗主フランスのような農奴制が発達を見ないという特徴をもたらしたのだった。

 
 農民反乱の次なる危機は、海の向こうから来た。1000年から01年にかけてのイングランド王エセルレッド2世によるコタンタン半島侵攻である。イギリス海峡に突き出したコタンタンは始祖ロロの時代からノルマン人の入植が始まったノルマンディーの要地であった。
 しかし、当時デーン人バイキングの侵攻に悩まされていたエセルレッド王は、デーン人が同族の支配するノルマンディーを根城にしていると睨み、半島を攻撃、リシャール2世の捕縛・連行を命ずる強硬策に出たのである。
 しかし、この策はノルマンディー公国の返り討ちにあった。この時活躍を見せたのが、ノルマン騎兵隊である。元は海賊的水軍勢力であったノルマン人が、この時代には強力な騎兵隊を擁していたことがわかる。ノルマン騎兵隊の実力は60年後、リシャール2世の孫ギヨーム2世(イングランド王ウィリアム1世)によるイングランド征服作戦で改めて証明されることになる。
 こうして完敗したエセルレッド王はリシャール2世の妹エマを娶ることで、ノルマンディ公国と婚姻同盟を結ばされることとなった。その後もエセルレッド王はデーン人対策に追われるが、ついにデーン人に敗北し、ノルマンディーに亡命を余儀なくされたのである。

 
 こうして摂政期に内憂外患を除去したリシャール2世の親政期はイングランドのほか、旧敵ブルターニュとも婚姻婚姻同盟を締結して、比較的平穏に推移した。宗主フランスのロベール2世とも親しく、政敵の多いロベールを軍事的に支援し、フランスとも良好な関係を保った。
 リシャール2世は信仰心の篤さから「善良公」の異名を取ったが、封建領主にとって最大の善行とみなされた修道院への寄進に熱心に取り組んだ。「善良公」の異名も、性格の良さ以上に、おそらくは数多くの寄進から生まれたものであろう。
 リシャール2世時代の重要な事績としてもう一つ、歴史書の編纂がある。これはリシャールの書記でもあった司祭デュドン・ド・サン‐カンタンに命じて記述させた『ノルマンディー公の歴史』である。この書は、始祖ロロ以来、本来外来者であるノルマン人の植民公国建設を正当化し、歴代公を美化する目的で書かれた政治性及び伝承性の強い歴史書であり、言わばノルマンディーの「古事記」である。

 
 リシャール2世が1026年に死去すると、同名の息子リシャール3世が後を継ぐが、間もなく兄弟間での紛争が勃発する。彼の弟ロベールが小領地イエモワに不満を持って反乱を起こしたのである。このような内訌は公国史上初めてのことであった。
 しかし、この内訌は長期化せず、ロベールが捕縛されて収拾された。リシャール3世は寛大にも、ロベールに忠誠を誓わせて釈放し、自らは首都ルーアンに戻ったのであるが、その直後に急死する。死因は不明で、ロベールによる暗殺も疑われた。
 実際、嫡子のなかったリシャール3世の急死により、ロベールが公位を継いだことから、疑惑が深まったのである。ロベールが兄の死に関与した確かな証拠はないにもかかわらず、実兄暗殺疑惑から、ロベールは「善良公」の父とは対照的に「悪魔公」なる不名誉な異名を取ることとなった。
 疑惑に包まれたロベール登位にまつわる黒伝説はさらに、13世紀頃に成立した中世ノルマンディーを舞台とする伝説「悪魔ロベール」にも一部取り込まれて後世まで伝えられる羽目となったのである。