歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

外様小藩政治経済史(連載第6回)

二 谷田部藩の場合


(1)立藩経緯
 谷田部藩は、初代藩主細川興元が初め徳川秀忠から下野国芳賀郡茂木に1万石を安堵された後、常陸国筑波・河内両郡に6000石余りを加増され、拠点を常陸に移したことで成立した。興元は後に熊本藩主家となる肥後細川氏初代忠興の同母弟である。
 興元は織田氏豊臣氏→徳川氏と「三英傑」に順次仕えた練達の武将であり、この間、兄の忠興とも常に行動を共にし、小倉城代も任されていた。ところがその後、何らかの理由で兄と不和に陥る。
 その理由は不詳であるが、考えられることとして、共に有能な武将としての兄弟間のライバル意識のほか、興元が養子に迎えていた忠興の次男興秋がキリスト教徒(キリシタン)であったことに感化され、興元も入信したことも影響していたかもしれない。とはいえ、この兄弟不和は主君徳川家康の仲介でいちおう解消されたのであった。
 興元が大名に列せられたのは、その後のことである。それにしても、名門細川氏出身にして、忠興同様に関ヶ原で戦功のあった興元がわずか1万石級というのは、40万石近い小倉藩主に納まった忠興と比べても過少感が否めないが、このような結果となった事情は何か。
 その点、当初秀忠は興元を10万石級で処遇する意向だったところ、忠興が横槍を入れたため、断念したとの説もあるが、これは当時すでに兄弟が和解した後だったこと、有力諸侯とはいえ外様の忠興の意見に秀忠がさほど強く影響されるとも考えにくいことから疑問がある。むしろ、棄教したとはいえ、興元が一時はキリシタンであったことが微妙に影を落としたのかもしれない。
 ただ、秀忠もいくらか過少感を抱いていたのか、興元が大坂の陣でも功績を上げると、褒賞として上述のように常陸に6000石を加増したのである。こうして下野と常陸に分地する形で邦領が形成されたのであるが、常陸の谷田部に拠点を移したことで、飛地となった下野側領地のほうが石高が多いという変則的な構成となった。
 下野といえば、細川氏が下野足利に発祥した足利氏の支流であることからすれば、数百年を経て先祖の発祥地に戻ってきたとみることもできるが、後に熊本に転じた細川本家から遠く離れた関東の片田舎での立藩は、その後の藩運営にも難儀することになる。