歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

高家旗本吉良氏略伝(連載最終回)

八 吉良義央(続)/義周(1686年‐1706年)

 
 赤穂事件がなければ、吉良家は存続したであろうが、義央はもちろん、吉良家自体も特段話題に上ることもない高家として終わっていたに違いない。赤穂事件は吉良義央を図らずも歴史上の著名人にするとともに吉良宗家を終わらせる役割を果たした。
 この事件の顛末についてはすでに多くのことが議論されているが、しばしば文芸作品で描かれるように、義央が朝廷使者への饗応役を命ぜられた赤穂藩浅野長矩に嫌がらせをしていたことが江戸城中での傷害事件につながったという諸説には確証がない。
 もっとも、前回も言及したように、義央はその出自から極めてプライドが高く、官位も長矩のような一般的な外様大名従五位下)より高いこともあり、自らが指南する長矩ら大名に対して日頃から高慢な態度を取り、反感を持たれていた可能性は充分にある。多くの大名はそうした感情を忍んでいたであろうが、長矩は違った。
 彼が出自した浅野氏も清和源氏土岐氏流)を名乗る点では、広い意味で吉良氏と縁者ということになるが、元は織田氏の弓衆にすぎなかった。しかし、婿養子で入った浅野長政関ヶ原の戦いでは徳川氏の東軍で活躍、家康側近となった功績から、子孫も大名に取り立てられた。その本家は広島藩であり、長矩は長政の三男長重が立てた分家の出身(長重曾孫)、5万石余りの中小大名であった。
 とはいえ、長矩は大藩である広島藩分家としてのプライドといくばくかの劣等感も混ざった複雑な性格の持ち主であったと推測できる。実際のところ、長矩の評判は義央以上に芳しくなく、癇癪持ち、武骨、女色好みで藩政は家老任せなどの否定的評価が多い。
 高慢な旗本が官位は格下ながら武家身分では格上という徳川時代特有のねじれ関係にある気難しい大名を指南するとなれば、何らかのトラブルが起きてもやむを得なかったであろう。ただ、直接の引き金となるような出来事は記録されておらず、長矩が義央を斬り付けた際に叫んだとされる「この間の遺恨覚えたるか」という表現からも、特定の出来事ではなく、積もり積もった反感が傷害事件を引き起こしたと解釈するのが妥当なのであろう。
 いずれにせよ、幕府本拠江戸城中での刃傷沙汰はたとえ加害者が大名であれ、重罪であり、死罪は免れなかった。ただ、赤穂浪士が決起したのは主君長矩のみ即日切腹という厳重処分となり、義央については処分なしとされたことが両成敗を正義とみなす封建法的な公平感を損なったことにあったとされる。
 たしかに、幕府は徳川氏と同じ三河出自の名門吉良氏に格別な厚遇をしていた形跡はあるが、斬り付けられた時、返り討ちにせず、一方的に傷害を負わされた義央を「被害者」として処遇したことは必ずしも不公平ではなかった。
 しかし義央は事件後、幕府に隠居願いを出し、受理されたことで、事実上は引責辞職の形となった。後を継いだのは養子の義周であった。彼は義央が上杉家の養子に出した長男綱憲の次男であり、義央にとっては孫に当たる。綱憲に代わり嫡男となっていた三男が夭折したことで、交換的に養子に入ったのであった。
 赤穂浪士の討ち入りがあった時、18歳の義周は武芸が不得手とされながらも応戦したが賊に斬り付けられ、一時失神したという。しかし殺害は免れ、幕府への報告などの事後策をどうにかこなしている。しかし、幕府側では隠居の養父を助けられなかった義周を不届きとして断罪し、改易処分とした。
 若いうえに、斬り付けられて失神していた義周の対応を不届きとするのは酷にも思えるが、これは幕府が改めて喧嘩両成敗の処分を下したというより、吉良家が赤穂浪士らによる義央暗殺策謀を防げず、再び騒動を起こしたことを問題視したものと考えられる。
 処分後、義周は諏訪藩預かりとなり、諏訪で捕囚生活を送っていたが、間もなく21歳で病没した。交換養子というお家第一の封建的慣習の犠牲者とも言える生涯であった。義周には子もなく、高家旗本吉良氏はこうして完全に断絶することとなった。
 ちなみに、幕府では吉良氏から早くに別れた遠縁の蒔田氏(旧奥州吉良氏)の吉良姓復帰を許し、高家として遇する一方で、義央の弟東条義叔〔よしすえ〕の旗本系統も享保年間になって吉良姓復帰を許したように、名門吉良氏の名跡の存続には好意的であった。