歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

ユダヤ人の誕生(連載第1回)

序論

 民族としてのユダヤ人は、おそらく日本人と並んでその出自が神話に満ちた民族である。それは日本人の出自が『記紀』に見える日本神話に依拠していることと似て、ユダヤ人の出自がユダヤ教聖典である『旧約聖書』(以下「旧約」と略す)に依拠していることによるであろう。
 本連載は旧約の読解を通じて、神話的なユダヤ民族の出自を改めて解明することを目的とする。それは決して好事家的な興味によるのではなく、むしろ現在最も解決困難な国際紛争の一つとなっているイスラエルパレスチナ問題解決の糸口をあえて古代史の中に探ってみようという実践的な関心によるものである。
 今日中東の国民国家の一つとして存在するイスラエルは、パレスチナの地から古代に離散したユダヤ民族が近代になって帰還して建国された特殊な国民国家である。
 国民国家はその成り立ちによって、現在地に古来土着した民族が主体となって建設された「土着国家」―典型例は中国―と、別の土地から移住してきた民族が主体となって建設された「移民国家」―典型例はアメリカ合衆国―に分けられるが、元の居住民族が帰還して建設された「帰還国家」は例外的である。帰還国家はその場所の後住・先住民族間で深刻な紛争を生じやすく、実際イスラエルパレスチナ紛争もこうした帰還国家ならではの難問に直面しているのである。
 そうした難問の本質的な解決のためには、外交術的な紛争解決策を繰り出すばかりでは不足であり、歴史に目を向ける必要がある。その場合、イスラエルパレスチナ問題解決の糸口は、古代中東の諸民族の関係について詳述する旧約の読解に見出し得る。
 読解といっても、それは批判的読解(クリティカル・リーディング)の手法によらねばならない。これはすべての史料解読に共通することではあるが、なかでも旧約はユダヤ教の視点からユダヤ民族の事績・功業を讃える立場で叙述されているため、それをそのままに受け取ることはできないからである。
 ここで私事に及ぶと、筆者の聖書との出会いは幼時に遡る。当時通っていた地元幼稚園が俗流キリスト教系であったことから、聖書の教えをタテマエとしていたのだった。ただし、それは『新約聖書』(以下「新約」と略す)のほうであって、旧約には馴染みがなかった。
 しかし、政治的な比重という点では、旧約のほうが新約に勝る。そうした意味でも、旧約は批判的読解が不可欠なのである。もとより筆者は聖書学者ではなく、中東古代史の専門家でもないが、現代の懸案に古代からアプローチする試みの一つとして展開してみたい。


[注]本連載は、当初2013年に別ブログ上で連載したものをいったん削除し、用語や表現を補訂したものである。