歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

ユダヤ人の誕生(連載第3回)

Ⅰ ユダヤ民族の原郷

 (2)アブラハムの出身地
 旧約では、民族始祖アブラハムの出身地を「カルデアのウル」とする。このウルとは、三代にわたってシュメール人都市王国が栄えたメソポタミア文明圏の由緒ある故地ウルと同一視されている。
 アブラハム(旧名アブラム)とは元来「群集の父」の意味を持つから、アブラハムとは一人の個人ではなく、要するに集合的に民族の始祖を表象していると考えることができる。
 そういうアブラハムはウル出身の富裕な遊牧民であったとされることから、ユダヤ民族が前期青銅器時代メソポタミア周辺に展開していた有力遊牧民族アムル人(旧約上はアモリ人)から分かれたのではないかとの推測を導くことになった。つまりアムル人の一派が前期青銅器時代末期の前2千年紀初頭頃に西方へ集団移住してカナンの地に入り、ユダヤ民族となったという仮説である。
 一時有力化したこの仮説はしかし、結局のところアムル人の西進という事実が考古学的に実証できなかったことから下火となり、今日では疑問視されている。
 そうすると、旧約は一体なぜウルという地名を出したのかということが改めて問題となる。この点については、時代下って旧約の編纂が始まった時期の特殊性を考慮する必要がありそうである。旧約に含まれる書物が最初に書かれたのは、紀元前597年からおよそ半世紀に及んだ「バビロン捕囚」の時代であった。
 バビロンもまたまさにアムル人が最初の王朝を建てたメソポタミアの古都で、ウルとも比較的近い。このバビロン捕囚時代のユダヤ民族にとってウルはまさに文明発祥の誉れ高い地であり、民族始祖の原郷をここに設定したことは自民族の起源を飾るうえで意味のあることだったと思われる。
 それではユダヤ民族がアムル人と全く無関係かと言えばそうとも言い切れない。アムル人自体の原郷はシリア方面と理解されている。ということは、アムル人がメソポタミアの地から西進したのではなく、逆にかれらはシリア方面から東進してメソポタミア地方へ移住したと考えられるのである。先のアムル人仮説とはちょうど逆向きとなる。
 これが何を意味するかと言えば、アムル人もユダヤ民族も本来シリアと連続的なカナンを含めたいわゆるレバント地方を原郷とする同一もしくは近縁な民族集団から出ているのではないかということである。
 従って、メソポタミアのアムル人が移住してユダヤ民族となったのではなく、ユダヤ民族は初めからカナンの地に居住しており、かれらと同一もしくは近縁な民族集団がメソポタミアへ移住してアムル人となったと想定できる。