歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

ノルマンディー地方史話(連載第10回)

第10話 「ノルマン様式」の不思議

 

 「ノルマン様式」とは、建築史の用語で、その名のとおり、ノルマン人の城塞や教会の建築に特有の様式を指している。しかし、興味深いことに、「ノルマン様式」は、1066年のノルマンディー公ギヨーム2世によるイングランド征服の後、主としてイングランドに多数出現するようになり、それ以前、「本国」のノルマンディー地方にはあまり見られない。
 実際、ノルマンディー公国は初代ロロ以来、ルーアンを首都としていたが、ルーアンにノルマンディー公の都城は残されていない。後にジャンヌ・ダルクが拘禁されたことで知られるルーアン城は13世紀初頭、フランスがイングランドからノルマンディー領を奪った後にフランスが建造したもので、ノルマンディー公の居城そのものではない。

 

 ノルマンディー地方に残されたノルマン様式と言えば、モン・サン‐ミシェル修道院が最も知られている。とはいえ、これも主要部はゴシック様式で、ノルマン様式なのは身廊のみ、その余も中世の様々な様式が折衷されたものである。
 ルーアンの歴史的建造物の中で最も著名で、初代ロロの地下聖堂もあるルーアン大聖堂にしても、現存する建物は12世紀中頃のもので、ゴシック様式である。また、ギヨーム2世の生誕地で居城でもあったファレーズ城の現存建物は、彼の息子でノルマン朝イングランド王ヘンリー1世が12世紀に築造したものにすぎない。
 ノルマンディー公国本拠のノルマンディー地方にノルマン様式が乏しい不思議さ―。おそらく、イングランド征服以前のノルマンディー公国は軍事的に強力な封建国家ではあったが、文化的にはまだ充分に発達しておらず、イングランド征服が「文明開化」を触発したと言えるのかもしれない。

 

 それを裏付けるように、イングランドにはノルマン様式建築が城塞と教会の双方にわたり、広範囲に残されている。最も有名なのは、今もテムズ河を見下ろすロンドン塔である。ロンドン塔はまさに征服王ウィリアム1世となったギヨーム2世が建設した(完成は没後)イングランドにおける中心的城塞であった。
 その他、教会建築としては、征服王が任じたダラム司教ウィリアム・ド・セイントカレの監督の下に建造されたダラム大聖堂は、ノルマン様式の最高傑作とみなされている。その傍らに立ち、大聖堂とともに世界遺産に登録されているダラム城もまた、ノルマン様式城塞の代表例である。
 これらノルマン様式の特徴として、簡素な装飾の重厚な石造りにして、厚い壁、太い円柱、半円状アーチなど、全体として質実剛健な軍事色の強いものである。

 

 このようにノルマン様式建築がノルマン征服後のイングランドで隆盛したのは、征服王朝の権威と強さをノルマン人の軍門に下ったアングロサクソン人たちに見せつけるという政治的な意図からであったに違いない。実際、征服以前、地味な木造建築ばかりだったイングランド各地で重厚な石造建築の出現を目にすれば、アングロサクソン人らは、支配者の交代を嫌でも意識せざるを得なかっただろう。
 ちなみに、ノルマンディー公家とは別系統のノルマン人豪族が征服したシチリアにも、修正されたノルマン様式とでも呼ぶべきものが出現している。最も著名なのは、シチリア王宮となったその名もノルマンニ宮殿内のパラティーナ礼拝堂。ただし、シチリアではアラブ‐ビザンティン建築の影響も深く、華美さも見られる。