歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

外様小藩政治経済史(連載第11回)

三 狭山藩の場合

 

(2)経済情勢
 狭山藩の本拠が置かれた河内狭山には、日本最古の灌漑用人口池とされる狭山池が所在している。その開削時期には諸説あるが、遺構の検証からは7世紀の飛鳥時代まで遡ることは確実と見られている。
 元来、狭山地域は『日本書紀』でも狭山池開削の由来として、「河内の狭山の植田水少なし」と記述されているごとく、水資源が乏しく、農業に適しない地域であった。狭山藩領地は、経済的にはそのような不利な立地条件にあった。
 加えて、狭山藩の領地が関西と関東に離隔された分領となっていたことも、領地経営上は不都合であっただろう。また、商業活動に関しても、経済的首都大坂の中心地から離れているうえ、小さな陣屋町しか形成できない小藩の構造上、飛躍的な発展は望めなかった。
 このような不利な条件を打開する最大の方法は、狭山池を支配することであった。陣屋を狭山池東畔に築造したのも、狭山池への宿願の表れだったかもしれない。しかし、幕府が西日本支配の要所とみなす大坂近辺の重要設備は幕府の直轄であった。
 それでも、名君とうたわれた5代藩主北条氏朝時代の享保6年(1721年)、預かり地という形で、狭山池の支配権を獲得することに成功する。これは狭山池内の新開地支配や樋役人の管理権まで含む広範な支配権であり、水下の村落の反対を押して実現したこの措置は、幕閣にも通じていた氏朝の政治力の成果と考えられる。
 しかし、氏朝の後を継いだ息子の氏貞時代の延享5年(1748年)、幕府は再び狭山池の支配権を取り上げる措置に出た。この措置の経緯はよくわからないが、氏貞が狭山池支配権の拡大を狙い、水下の村落を含む周辺幕府領の管理権や新開地の拡張を求める要望書を幕府に提出したことが、かえって幕府の不信を買った可能性もある。また、将軍も吉宗から家重に代替わりしていた。
 いずれにせよ、狭山藩の狭山池支配は、27年ほどで終了する。この後、狭山藩の財政状況は悪化していき、同時期の他藩同様、倹約令や上米、藩札発行など当時の改革マニュアルを実行するが、効果はなかった。ただ、11代氏燕の時に導入した氷豆腐(高野豆腐)の専売事業という窮余の一策はある程度当たり、収益を上げた。
 しかし、天保年間以降、幕末にかけて、大塩平八郎の乱やロシアのプチャーチン提督の大坂来航、天誅組決起など、近畿方面での内憂外患対処に動員され、軍費がかさんだことで、藩財政は逼迫していった。