歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

クルド人の軌跡(連載第2回)

一 クルド人の形成

民族揺籃期
 初回でも見たように、クルド人の発祥は謎に包まれているが、クルド人自身の伝承によれば、クルド人はメディア人の末裔であるとされる。メディア人はイラン北西部を拠点とし、紀元前8世紀から同6世紀にかけて強力な王国を形成したが、アケメネス朝ペルシャに滅ぼされた。
 もっとも、クルドという語が信頼できる史料に現れるのは、メディア王国よりはるか後世、紀元7世紀のアラブ史料においてである。ただ、この時期のクルド人という語は民族名というよりは、イラン北西部の遊牧民を包括的に差す言葉であったと解されている。
 実際、クルド人母語とするクルド語は印欧語族イラン語群の中でも北西群と呼ばれる地域的言語集団の一つに位置付けられており、イラン北西の遊牧民間で共有されていた言語と考えられる。しかし、同じクルド語がクルマンジーとソラニと呼ばれる二大系統に分かれ、両系統間では相互理解が困難なほど相違が大きいというように地域性の強さを特徴とする。
 このような言語の地域性は、定住せず、移動を繰り返す遊牧民にはしばしば見られる特徴であるので、クルド人遊牧民集団を起源とすることはたしかであろう。そして、遊牧民の特質として、統一的な政治体の創設は時期的にかなり遅れるということも、クルド人にあてはまる。
 クルド人の統一的な政治体が史料的に出現するのは、10世紀以降、いくつかの都市を拠点とする複数の地域的な首長国が林立するようになってからである。これらの首長国はすべてイスラーム教を国教とするイスラーム首長国としての共通性を持っている。
 とすれば、今日クルド人の大半が信奉するイスラームの受容がこうした政治体の形成の触媒となったと考えられるが、それ以前のクルド人の動向は、断片的に記録されているだけである。軍事的な動向としては、イラン系の大国ササン朝の基礎を築いたアルダシール1世がマディグという王に率いられたクルド人と交戦し、征服した事績が記録されている。
 ただ、この時代のクルドは統一的な民族名ではないとすれば、マディグも北西イランの遊牧民集団の首長といった立場であり、統一的な「クルド王国」が存在していたとみなすべきではなかろう。マディグは、当時イラン東部を支配していたパルティア王国に属する遊牧集団の長の一人だったと見られるが、最終的に、こうしたパルティア傘下クルド人の大半はササン朝編入されたと考えられる。
 一方、ヴァン湖周辺のクルド人集住地カルドゥチは紀元前2世紀から同1世紀末にかけて独立状態を保ったが、その後、古代ローマによって征服され、その属州となっていたところ、西暦360年、ササン朝皇帝シャープール2世が侵攻し、クルド人弓兵に守備されたベザブデの町を三年がかりで攻略し、落としたことが記録されている。
 結局、イスラーム化以前のクルド人は統一的な政治体を形成しないまま、おおむねササン朝イラン帝国ローマ帝国いずれかの支配下に置かれ、伝統的な遊牧生活を継続するか、あるいはその勇猛な性格を生かし、戦士として両帝国に奉仕する立場にあったと考えられる。