歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

シリーズ:失われた権門勢家(第1回)

☆☆☆世界には、権門勢家として一度は権勢を享受しながら、様々な事情により子孫が絶え、失われた一族が存在する。そうした内外の失われた権門勢家を(1)出自(2)事績(3)断絶経緯(4)伝/称後裔氏族等に分けて、追跡することが当連載の趣意である。それを通じて、世界歴史の有為転変を鳥瞰していく。☆☆☆

 

一 ダヴィデ王家


(1)出自

 農民兼羊飼いの出自と言われるダヴィデを祖とする古代イスラエル人の王家。かつては聖書に記述があるのみの半伝説的王朝とみなされていたが、1990年代にイスラエル北部の遺跡で出土した碑文に「ダヴィデ家」と読める文字が発見されたことで、実在可能性が高まった。


(2)事績

 羊飼い出自とされるダヴィデは当時、イスラエルの実質的な初代国王サウルの軍に参加していた兵士でもあり、ペリシテ人勢力との戦争でその優れた戦いぶりをサウルから嫉視され、命を狙われたため、脱走する。サウルの戦死後、跡を継いだ王子イシュ・ボシェト暗殺事件を鎮圧し、神託によりイスラエルの王に推戴される。
 その後、ダヴィデを継いだソロモン王の下で全盛期を築いた後、孫のレハブアム王の時、イスラエルは南北に分裂したが、ダヴィデ朝は南部のユダ王国の王統となり、世襲王朝として継続していく。
 統一王朝だった最初の三代を除けば、ユダ王国という地方王国の主ではあったが、ユダ王国は北イスラエル王国より農業不適で経済的には不振だったが、政情は安定しており、経済的に豊かな反面、クーデターによる王朝交代が相次いだ北王国とは対照的に、最後までダヴィデ王朝が継続された。


(3)断絶経緯

 最後の第20代ゼデキア王の治下、紀元前586年にバビロニアの侵攻を受け、滅亡。王子らは皆殺しにされ、自身は目をえぐられたうえ、バビロニアの首都バビロンに連行、捕囚となって生涯を終えた。ただし、ゼデキアの甥で前国王エホヤキンは捕囚となりながらもバビロニアに取り入って優遇され、彼の子孫は存続していった。


(4)伝/称後裔氏族等

 ユダ王国支配層が集団的にバビロニアの捕囚となったバビロン捕囚時代も、ダヴィデの血統を継ぐダヴィデ統は将来の帰還を想定したある種の亡命政権(捕囚政権)の長として、尊重された。そして、実際、新たにオリエント覇者となったアケメネス朝ペルシャにより、帰還が許された際には、エホヤキンの孫ゼルバベルが帰還指導者として活躍した。
 ダヴィデ統はその後のイスラエルの歴史上もはや統治者に返り咲くことはなかったが、その子孫を称する家系はローマ帝国によるイスラエル占領後の民族離散以後も、各地に残された。
 ちなみに、キリスト教開祖イエス新約聖書で「ダヴィデの子」と称されているが、これは血統的にイエスダヴィデ統であったということではなく、バビロン捕囚以後、救世主メシア待望論が強まる中、メシアもダヴィデ統から出現すると信じられるようになったという信仰上の美称であると考えられる。