歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

外様小藩政治経済史(連載第13回)

三 狭山藩の場合 

 

(4)幕末廃藩
 小藩の幕末はいずれもかなり苦しいものとなったが、狭山藩も例外ではなかった。ただ、狭山藩の最後の二人の藩主がそれなりに手腕を持った英君と呼んでもよい人物であったことは、狭山藩の幕末を比較的穏やかなものにしたと言えるかもしれない。
 第11代北条氏燕は幕府から課せられた警備業務等で藩の出費がかさみ、財政難が深刻化する中で藩主に就任し、上米や高野豆腐専売制などの財政改革と政治改革を実施して短期的な成果は出したのであるが、領民の反対や藩役人の汚職などの要因から、次代の文久年間には頓挫してしまうのだった。
 氏燕は藩校の再興など、文教政策ではある程度長期的な成果を上げたが、文久元年(1861年)の節目をもって家督を養子の北条氏恭[うじゆき]に譲り、隠居した。氏恭は元来、下野佐野藩主家堀田家の生まれであったが、嫡子のない氏燕の要請で養子となっていたものである。
 氏恭が就任した文久年間はまさしく幕末動乱から明治維新へ向かう正念場であり、就任後の氏恭は幕命に従い、大坂警備や天誅組討伐などの任務を忠実にこなした。ちなみに、天誅組は河内への進軍時、隠居していた氏燕に対し会談を求め、蜂起への出陣を要請してきたが、慎重な氏燕は会談を避け、家老を通じて銃器供与するなどの協力にとどめた。
 こうした隠居の対応は、佐幕派の藩主・氏恭と衝突しかねない状況をぎりぎりで回避したものであろう。ただ、最終的に大政奉還がなされると、氏恭も新政府に恭順し、戊辰戦争では新政府軍に参加した。こうした流れに逆らわない対応も、他の多くの外様小藩が採った道と同様である。
 その後、廃藩置県により藩知事に改めて任命された経緯も他藩と同様であるが、幕末動乱期にもはや財政破綻していた狭山藩は全国に先駆けて版籍奉還し、氏恭も藩知事職をすぐに辞するという潔い対応をした。それほどに藩の維持は困難になっていたのである。
 その後、慣例により、明治政府によって子爵を授爵された氏恭は堀田氏→北条氏という家柄と明治政府への協力姿勢を評価されてか、明治天皇の侍従に任命され、天皇の死去まで勤め上げた。外様小藩主出身者としては、破格の厚遇と言えたであろう。