歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

欧州超小国史(連載第2回)

Ⅰ サン・マリーノ至穏共和国


(1)建国者・聖マリヌス
 サン・マリーノは、建国者とされる人物マリヌスの個人名をそのまま国名とする稀有の国である。石工出身と言われるマリヌスは名前しか判明していない半伝説的な人物であるが、まさに伝説によれば、彼は元来、アドリア海のアルバ島、現在はクロアチア領ラブ島の生まれであるとされる。
 アルバ島はかつてリブルニア人と呼ばれる古い民族が居住するところであったが、紀元前35年にローマ帝国によって征服されて以来、リブルニア人はローマ化され、言語もラテン語に置換されていった。紀元3世紀末から4世紀の人であるマリヌスも、そうしたローマ化されたリブルニア人であった可能性が高い。
 マリヌスは、早くにキリスト教に入信したようだが、当時、ローマ帝国領内でキリスト教はまだ禁教であった。時の皇帝ディオクレティアヌスは、ローマ帝国の全般的な混乱期であったいわゆる「3世紀の危機」を克服すべく、強権をもって国家再建に取り組み、その一環として、キリスト教の大弾圧を断行した。
 そのあおりでマリヌスは友人とともにアドリア海対岸のイタリアの町リミニに亡命し、その地でキリスト教助祭となり、地元で説法活動をしていたらしいが、そこでも迫害に直面する。彼の「罪状」は、マリヌスのせいで夫と疎遠にさせられたと主張する女性の告発によるとも、リミニの奴隷にキリスト教を説いたことによるとも言われる。
 そこで、マリヌスは改めてティターノ山に逃げ込み、そこに僧庵を立てて、隠者となった。彼の敬虔さは次第に評判を呼び、追随者が増えると、ティターノ山の所有者が彼に山を譲渡した。そして、301年、マリヌスはティターノ山を中心とする小さな国家を建国した。
 とはいえ、サン・マリーノが文献上に現れるのは、それから600年以上を経た10世紀も半ばのことであり、マリヌスによる「建国」は多分にして伝説的である。おそらく、当時は、開祖イエスの存命中と似て、マリヌスと彼の追随者による小さな信徒団にすぎず、身の安全上もローマ帝国キリスト教を正式に公認するまでは、隠遁生活を送っていただろう。
 ちなみに、マリヌスは366年に没する時、「私はあなたたちを、二人の男から自由にする」という謎めいた遺言を残したという。ここで言う「二人の男」とは、ローマ皇帝ローマ教皇を指すと解釈され、サン・マリーノは、帝権からも教権からも独立した地位を保つことが国是とされた。
 マリヌスは後にローマ教皇から列聖され、聖マリヌスとなった。正式国名Serenissima Repubblica di San Marinoに冠せられる「至穏」(伊:serenissima)という形容詞にも、隠者によって建国された宗教国家としての特異な歴史が表現されているとも言える。