歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

外様小藩政治経済史(連載第15回)

四 福江藩の場合

 

(2)経済情勢
 福江藩が支配する五島列島は全般に山がちであり、農業適地とは言えず、稲作より畑作に傾斜していた反面、水産資源には恵まれており、藩の財政も水産に支えられていた。その点では、北海道の松前藩と同様、石高制による領地安堵があまり意味を持たない藩であった。
 実のところ、福江藩主・五島氏は、2代盛利の時代までは朝鮮貿易による収益も得ていたが、江戸開府後、幕府の貿易統制が強化され、藩内二か所の自由貿易港が閉鎖となって以降、朝鮮貿易の権利は対馬藩に一本化され、貿易利権を喪失した。
 それに加えて、寛文2年(1662年)には幼年で就任した4代藩主盛勝の後見役を務めた叔父の五島盛清が、後見役退任に際して、1万5千石中の富江領3000石を分知され、旗本・交代寄合として分立したことから、藩財政は分割され、打撃を受けた。
 この分知においてとりわけ問題を生じたのは、捕鯨であった。捕鯨有川湾で盛んであったところ、湾をはさんで福江領と富江領に分離された二つの漁村の間で捕鯨権紛争が生じたのである。この海境紛争は実に30年近くに及んだが、提訴を受けた幕府の裁定によって、福江領側の勝訴で決着した。
 これにより、捕鯨は藩財政において主軸的な歳入源となり、一時藩財政は潤ったが、二度の飢饉に見舞われ、財政難が深刻化する。このため、7代藩主盛道は、宝暦2年(1752年)、上知令による藩士の知行削減や幕府からの2000両借款で窮地をしのぐが、借款返済のため、農民から「高役銀」(労役を銀で代納する税制)の徴収を断行したことで、農民の窮乏を招いた。
 こうした窮乏は藩士の生活にも響き、同じく盛道が導入した悪名高い「三年奉公制」(領民の長女を除く娘が15乃至16歳に達すると、藩士宅で3年間無給奉公することを義務付ける制度)という隷役制度も、自力で使用人を雇えない藩士の救済を図る意味があったと見られる。
 寛政年間になると、農民数の激減に対処するため、8代藩主盛運[もりゆき]は、対岸の大村藩に農民の入植を要請し、最終的に3000人ほどの移住者を受け入れることで、農業立て直しを図らざるを得ないほどであった。
 しかし、19世紀に入ると、福江藩主の辺境領主的な地政学布置から、幕府により異国船に対する沿岸防備役を課せられたことに伴う財政負担により財政はますます逼迫したうえ、明和年間以来、再び海境紛争が再燃、40年にわたる係争の末、沿岸は各々、湾の沖合では双方に勝手捕鯨権を認めることとなったため、乱獲で捕鯨が衰退する結果を招いた。こうして、基幹産業も斜陽化する中、幕末を迎えることとなる。