歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

ユダヤ人の誕生(連載第7回)

Ⅱ 「出エジプト」の真相

(6)中央山地への移住
 前回、旧約の出エジプト物語はエジプト新王国によるヒクソスの駆逐の史実と重なる部分は認められるものの、それだけでは説明し切れず、別の史実の投影も想定しなければならないと述べた。
 この点で、エジプト第18王朝によるパレスチナ支配の確立という新状況を視野に置く必要があるかもしれない。長く続き、エジプトの再興を主導した同王朝は、紀元前15世紀半ば頃になると、パレスチナ各都市に代官を駐留させ、宗主としての支配を強めていた。
 ちょうどその頃から、パレスチナの中央山地で集落が急増するという考古学的事実が認められる。時代区分としては後期青銅器時代晩期から初期鉄器時代に当たるが、この頃エジプトによるパレスチナ支配は平野部を中心としており、山地は支配の及ばない空隙となっていたと見られる。このことは、平野部の民族であるエジプト人は山岳を苦手としたであろうことからも容易に想像がつく。
 この時期に山地集落が増えた理由としては、平野部の原カナン人の一部がエジプト支配を逃れてエジプトの支配が及ばない山地へ集団移住したということが考えられる。出エジプト物語では出エジプトの主たる動機は、エジプトにおけるユダヤ民族搾取からの解放ということにあったが、そうした搾取が行われていたとすれば、それはエジプト本国ではなくして、まさにパレスチナ=カナンの地においてであった可能性がある。
 そうしたエジプトによる一種の植民地支配を逃れるため、平野部の住民の一部が山地へ脱出した。これこそが、真の「出エジプト」であると考えられることもできる。
 後に旧約が編纂される過程で、先のヒクソス駆逐作戦による原カナン人の避難・帰還の伝承とその後におけるエジプトの支配する平野部から山地への集団移住の伝承とが合成されて、モーセの統率による出エジプトという壮大な物語が創作されたのではないだろうか。
 そう考えた場合、この中央山地に居住するようになった原カナン人こそ、ユダヤ民族の最初の核となった集団とみなしてよいであろう。それを裏書きするように、この時期の平野部の遺跡からは豚の骨が出土するのに、山地の遺跡からは出土しないという。このことは、山地住民の間で後のユダヤ教戒律につながる豚肉に関する禁忌がすでに形成されていたのではないかとの推定を導く。
 一方で、この時期の山地住民と平野部住民が全く別の民族であったことを示すほどの顕著な差異は認められないことからすると、両住民は元来同一民族集団に属したが、ある時点から別れて住むようになり、特に山地住民は狭隘な地で定住生活に入ったことで、宗教的にも独自のアイデンティティを共有し合う新たな民族としての意識を高めていったと考えられる。
 こうして、おおむね初期鉄器時代以降のパレスチナ中央山地住民こそが「出エジプト」した原ユダヤ民族(原イスラエル人)の始祖集団であったと考えれば、逆に、それ以前、ユダヤ民族はまだそれとしては存在していなかったということになる。