歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

欧州超小国史(連載第3回)

Ⅰ サン・マリーノ至穏共和国

 

(2)世界最古の共和国として
 サン・マリーノは迫害を逃れた隠者のコミュニティーとして始まったゆえに、歴史的な記録に登場するようになったのは伝承上の建国年から数世紀も後のこととなる。最も早い記録は6世紀初頭頃に当地を訪れた修道士の報告であるが、この時代のサン・マリーノはまだ国家というよりも、修道士共同体の域を出ていなかったようである。
 その後、6世紀後半には、イタリアに侵入してきたゲルマン系ランゴバルド族の一部勢力が建てた自治国家スポレート公国の封土として取り込まれた。公国が8世紀後半以降、同じゲルマン系のフランク族が建てたカロリング帝国の傘下に移ると、サン・マリーノは次第に政治的共同体としても発達していき、事実上の宗教自治都市として司教が統治していることを記す9世紀の報告も現れる。
 最初期のサン・マリーノは住民の家族を基礎単位とする都市国家であり、家族代表から成る評議会(アレンゴ)が最高機関であったと見られる。そして、13世紀半ばに、二名の執政官(カピターノ・レッジェンテ)を執行部とする統治形態が築かれた。このような複数執行部の形態は、今日まで維持されている。サン・マリーノ最初の成文法典は1263年に制定されたというから、執政官の制度と合わせ、今日の共和国体制の基礎は13世紀代に遡るということになる。
 サン・マリーノは辺鄙な山岳都市国家とはいえ、歴史上三度外部から侵略を受け、そのうち二回は中世代のことである。ローマ帝国滅亡後、イタリア半島が分裂・抗争下にあった時代ゆえ、山にこもるサン・マリーノも平穏ではいられなかったのだ。
 中世の侵略はウルビーノ領主のモンテフェルトロ家及びリミニ領主マラテスタ家から受けたが、サン・マリーノはこれを撃退した。「隠者の国」ながら、武にも長けていたようである。1463年には、マラテスタ家に対する軍事同盟にも加わり、これを破っている。
 声望を高めたサン・マリーノに対し、時の教皇ピウス2世はいくつかの城や町を与えたほか、周辺の自治共同体が新たに参加することによって、従来はほぼティターノ山域に限られていた領域が拡大し、今日のサン・マリーノ共和国の領土が形成された。そのため、現存する共和国の名実ともの実質的な成立は15世紀代と言ってもよいだろう。