歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

土佐一条氏興亡物語(連載第4回)

四 戦国大名土佐一条氏の盛衰(上):短い絶頂 

 土佐一条氏の初代は京都から下向してきた一条教房であるが、彼は終生公家として生きたのに対し、大名土佐一条氏の実質的な初代は教房の次男・房家である。房家は教房が土佐下向後に土佐で生まれた「土佐っ子」であり、京都へ帰還することなく、土佐の在地領主として自己を確立していった。

 ただし、大名といっても、房家の若年時代は戦国時代の入口であり、土佐一条氏もまだ公家的な性格を残していた。房家自身、正二位の官位と土佐国司の官職を持つ在地公家でもあり、自身の次男・房通を京都の一条氏本家の婿養子に送り込み、本家とも縁戚関係を結ぶなど、京とのつながりを維持していた。
 こうした公家大名としての性格が変わってくるのは、永正の錯乱を境に細川氏が土佐から退去して以降である。といっても、土佐は元来、在地系や外来系の豪族がひしめく地であり、その中でも「土佐七雄」と称される有力国人勢力が細川氏退去後の権力の空白を利用して伸長してきた。
 一般に、土佐七雄とは、本山、吉良、安芸、津野、香宗我部、大平、長宗我部の七氏を指す。このうち出自が比較的明瞭なのは源氏系の吉良氏と甲斐源氏系の香宗我部氏、藤原秀郷系の大平氏くらいで、その余は出自不詳の土豪であるが、このうち長宗我部氏は細川氏に従っていたため、永正の錯乱の後、一時滅亡危機に立たされたところを一条房家に救済されたことは、前回述べた。
 これら七雄に対して、土佐一条氏は直ちに盟主権を行使できたわけではないが、早世した三代目房冬を継いだ四代目房基は攻撃的な勢力拡大策を取って、謀反を起こした津野氏、かつて一条氏の土佐下向を助けた大平氏をも討ち、土佐一条氏を土佐七雄を凌ぐ上位領主の地位に押し上げた。
 その意味で、名実ともに戦国大名一条氏が誕生したのは、四代目一条房基の時と言える。ところが、房基は権力の絶頂期にあったはずの天文十八年(1549年)、享年二十八歳で突然自害する。自害の理由は乱心とされるが、近世の「乱心」は額面通りに受け取れず、政敵による謀殺の可能性も否定し切れない。
 いずれにせよ、土佐一条氏の絶頂期を構築するはずだった房基が自害して果てたことで、土佐一条氏の命運を大きく狂わせたことは間違いない。わずか七歳で跡を継いだ房基の子・五代目兼定の代で、土佐一条氏は大きく傾くことになる。絶頂期が即、終わりの始まりであった。