歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

私家版アイヌ烈士列伝(連載第1回)

 アイヌ民族は、その歴史を通じて、国家やそれに類する政治機構を形成せず、かつ部族的な連合体を形成することもなく、コタンと呼ばれる通常は10戸未満から成る小村単位の生活様式を維持していた。コタンは父系集団によって統制され、その長はコタンコロクルと呼ばれた。
 もっとも、アイヌ民族のコタンが点在する領域をイオルと呼んだが、これとて「国」のような政治的機構ではなく、アイヌ民族の生存場としての地理的な概念であり、イオルを統治する王や首長のような権力者的存在はいなかった。
 こうした生活様式のため、アイヌ民族は歴史上、王やその他元首に相当するような指導的人物を輩出しなかった。しかし、前近代には和人との度重なる戦いを率い、近代以降にはアイヌ民族の地位向上のため、政治的または文化的な活動を率いた指導者は輩出している。
 本連載では、そうしたアイヌ指導者を「アイヌ烈士」と呼び、時代順に列伝の形で通覧していく。時代的には、アイヌ民族と和人の関わりが密接になる15世紀中頃から近現代にまで及ぶ。
 ただし、前近代期アイヌ社会は無文字であり、固有の史料を残さなかったことから、烈士の事績も和人側の記録によらざるを得ない。当連載もそうした制約下にあるが、叙述に当たっては、できる限りアイヌ側の視点に立って烈士の事績を再解釈しながら、見ていくことにしたい。


一 コシャマイン(?‐1457年)

 アイヌ民族がいつ頃から自覚的に形成されたかははっきりしないが、樺太では13世紀代、モンゴル帝国元朝樺太侵攻以後、アイヌと見られる「骨嵬」なる民族集団が対戦相手として登場し、同世紀末には「王不廉古」なる指導者に率いられた骨嵬が黒龍江流域に来襲し、元と交戦した記録もある。
 「王不廉古」は最も初期のアイヌの戦闘指導者かもしれないが、残念ながら、その人物像も事績も判然としない。和人側の史料上、戦闘指導者として記録される最初の烈士は15世紀半ばのコシャマインである。
 コシャマインは、1457年に勃発した和人との最初の大規模な武力衝突でアイヌ軍を率いた指揮官である。和人史料上は首領として描かれるが、アイヌには統一的な部族長のような首領はおらず、戦闘に際して指導者に挙された有力なコタンコロクルの一人だったのであろう。
 15世紀後半期、アイヌは従前の中国・明朝との取引関係が明朝の斜陽化に伴い途絶するようになり、反面で和人との取引関係が拡大していた。この頃には、和人側もそれまでほとんど未踏の領域だった北海道に移住してきた渡党が増加して勢力を伸ばし、アイヌの取引相手となっていたのである。
 そうした背景の下、箱館の志濃里で、アイヌの若者が和人の鍛冶屋に依頼した小刀の出来や価格をめぐって口論となり、鍛冶屋がアイヌの若者を刺殺するという事件があった。この喧嘩殺人が引き金となり、怒れるアイヌ軍と和人軍の大規模な戦闘が勃発した。
 些細な喧嘩殺人から、なぜ戦争規模の武力衝突に至ったかは不明だが、一考するに、同種のアイヌ‐和人間の諍いはこの時代、かなり頻発しており、また和人の渡党勢力が如上のイオルを侵犯する形で拡大してきた状況に対するアイヌ側の不満が鬱積しており、それが殺人事件によって報復戦として刺激されたということであろう。
 この戦いでアイヌ軍を率いたのがコシャマインであったため、「コシャマインの戦い」と呼ばれるこの戦争は当初、アイヌ優勢に推移し、和人側の道南十二館と呼ばれた有力な渡党の拠点中、10の館を落とし、和人を壊滅寸前に追い込む勢いを見せた。
 このような戦いぶりを見ると、コシャマインの戦闘指揮能力とともに、政治的な機構を持たないアイヌがひとたび戦闘となると団結して相当な戦闘力を示すことが見て取れる。このようなアイヌの戦闘時の団結性は、以後もたびたび発揮されていく。
 しかし、和人側でも、花沢館主・蠣崎氏の客将・武田信広が総大将となり、反撃に出ると、戦いの局面が変わり、信広が最終的にコシャマインを息子とともに射殺し、アイヌ軍を破ったことで終戦した。
 この戦争は和人とアイヌの関係性にも大きく影響を与え、軍功のあった武田氏が蠣崎氏の娘婿として相続すると、以後、蠣崎氏が渡党の最有力者の地位に上るとともに、アイヌを服属させるようになっていく。そのため、和人との本格的な戦いも16世紀初頭までいったん途絶えることになる。
 このようにコシャマインは敗れたけれども、和人との大規模な戦闘でアイヌ民族の団結性を示したという点で、アイヌ民族としての自覚を強く覚醒させたことも間違いないだろう。その意味では、アイヌ民族にとってもコシャマインと彼の事績は歴史的な転換点となったと言える。