歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

外様小藩政治経済史(連載第16回)

四 福江藩の場合 

 

(3)社会動向
 福江藩は、小さな島の領主がそのまま近世大名成りして治めていた小藩であったわりに―むしろ、それゆえにと言うべきか―、藩の主軸産業である漁業の権益も絡み、騒動・騒乱が各時代ごとに勃発する傾向にあり、波乱の小藩であった。
 最初の騒動は、2代藩主五島盛利の時、初代藩主玄雅の孫(養子)に当たる大浜主水が藩主継承権と盛利の失政を幕府に直訴した一件である。
 この一件の背景には、元来、盛利が初代の従兄弟の子という遠縁継承であったことに加え、藩主権力強化のため、兵農分離と家臣団の城下居住義務(福江直り)を強行したことへの反発があったと見られるが、幕府の裁定は盛利勝訴であり、盛利は主水とその一派への処刑で応じた。
 この大浜騒動を乗り切った盛利を継いだ長男の3代盛次は生来病弱のため、兄の盛清が藩政代行者となったが、そのために兄弟間の対立が昂じ、盛清が早世すると、後を継いだ4代盛勝は幼少のため、幕命で盛清が後見人として引き続き藩政を執った。
 しかし、盛勝の成長に伴い、盛清は功績から分知を受けて3000石の富江領を安堵され、交代寄合に列した。こうして盛清が事実上の独立領主に近い立場となり、しかも漁業中心地の有川湾の漁業権の大半を掌握したうえ、捕鯨権を対岸の大村藩の網元に丸投げするという策により、前回も見た通算で一世紀にも及ぶ海境紛争が勃発した。
 この紛争の間、藩財政も逼迫し、高役銀や三年奉公制などの悪制を次々と導入することになるが、不思議と百姓一揆は起こらなかった。
 ただ、8代藩主盛運の時に導入した大村藩からの入植政策は成功を収め、藩財政の一時的な立て直しに寄与したほか、この時、入植者の中に含まれていた隠れキリシタンを庇護したため、盛運は福の神として崇拝されるまでになった。
 しかし、寛政期には財政が再び悪化、ついに寛政9年(1797年)、福江藩史上初となる百姓一揆が起きたのである。19世紀に入ると、辺境領主の一角として海防策を幕府から求められたことで財政悪化に拍車がかかり、御用商人との間で武士身分の売官を行ったため、商人階級の藩政介入を助長した。
 ただ、これは見方によれば、ある種の実力主義への転換でもあり、近代的官僚制の萌芽でもある序位昇進制の導入につながり、元来人材が不足しがちな小藩にとっては、プラスとなる面もあったのは皮肉であった。
 しかし、他の小藩と同様に、抜本的な財政再建は困難であり、文政8年(1825年)にも再び大規模な百姓一揆が勃発する中、9代藩主盛繁は文政12年(1829年)、早々と家督を長男の盛成[もりあきら]に譲り、隠居した。