歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

欧州超小国史(連載第4回)

Ⅰ サン・マリーノ至穏共和国 

 

(3)憲法制定から教皇による承認へ
 サン・マリーノの共和国としての基礎は、15世紀後半、ファエターノ集落が最後の構成共同体として参加し、9つの共同体のまとまりから成る国が形成されて一応完成を見たと言える。しかし、まだ国際的な承認を得ておらず、自称独立国というにすぎず、その地位は不安定であった。
 そのため、続く16世紀には二度の外部侵略を経験する。最初のものは1503年のチェーザレ・ボルジアによる侵略である。当時、チェーザレ・ボルジアと言えば、教皇アレクサンデル6世を父に持つローマで最有力の貴族にして軍人であり、父教皇ともども野心的なローマ教皇領の拡大政策に乗り出していた。
 チェーザレがサン・マリーノに触手を伸ばしてきたのも、そうした教皇庁の覇権追求の一環と見られる。両者の軍事的な非対称性からすれば、サン・マリーノの征服は容易であったはずのところ、征服目前にして父子同時の発病と父の急死というハプニングに見舞われ、撤退したため、サン・ロマーノは辛くも征服を免れたのだった。
 続いては、1543年、後の教皇ユリウス3世の甥による侵略を受ける。これは500人の歩兵や騎士を含む本格的な侵略だったにもかかわらず、折からの霧によって敵軍が道に迷い、徹底したことで、またもや征服を免れた。
 こうして、サン・マリーノは16世紀における二度の侵略を神風的僥倖により免れたことから、自国の将来性にも自信を深めたようである。16世紀末年の1600年には初めて憲法を制定するが、これは世界最古の成文憲法ともみなされている。
 全六巻から成る憲法はローマ法の影響を受けた刑事法の領域も含む法典集といった体裁のもので、近代的な憲法とはやや様相を異にする。それでも、60人の評議員から成る大総評議会を最高機関とし、執政が行政を担うサン・ロマーノの現行統治機構の基本が早くも定められている。
 サン・マリーノはこの後、1602年に時の教皇クレメンス8世から保護条約によって正式の国家承認を受けることに成功した。この条約は年月をおいて1631年にようやく発効したため、これをもってサン・マリーノには国際法上も独立国家として完成された。