歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

もう一つの中国史(連載第3回)

 一 南中国の独自性

 

(2)越の短い覇権
 中原で周王朝が覇権を確立した頃、中国南部の長江文明圏はいったん衰亡したように見えるが、長江文明人が完全に消滅したとは考えにくい。周の東遷(事実上の滅亡)後、春秋時代に入ると、今日の河南省から湖北省湖南省付近に楚が、また浙江省(後に江蘇省へ遷都)を中心に強国・越が台頭してくるからである。
 その中でも、歴史上は後発である越は元来、百越とも呼ばれ、江南に広く分布していた南方系諸民族に出自する民族が主体となって建てたとも言われており、越が本拠とした浙江省と言えば、まさに長江文明最盛期の遺跡が存する所であることは示唆的である。
 百越はその名のとおり、多様な民族の総称であって、単一の民族集団ではないが、現代中国で最大の少数民族を構成するチワン族はかつての百越の中から派生したと推定され、言語学上はタイ・カダイ語族に属し、タイ人とも近縁関係にある。
 現代の浙江省チワン族の拠点ではないが、かれらと近縁な民族が越の主体勢力であった可能性はあるだろう。他方で、越の最盛期を作った勾践王は伝承上の漢民族最初の王朝・夏王朝庶子の流れとする伝承も存在することを考慮すると、先住民族漢民族が混血し、越のような南方系強国を形成するようになったことも想定できる。
 越は長江文明時代以来の稲作を生産基盤とし、製銅でも繁栄した。風俗に関しては、哲学書荘子』に越人は断髪、半裸で文身を入れていたとある。この記述が正しいとすれば、時代下って紀元後3世紀代の倭人の風俗として『魏志』に記述されたものと類似する点もあり、改めて倭と南方中国の文化的な連関が留目されるだろう。
 越の最盛期は紀元前5世紀後半に出た勾践王の時代であり、勾践は周王朝の同族が建てたとされる漢民族系の隣国呉と中原の覇を争った。その過程で勾践は一時呉の捕虜となり、虐待されたが、解放されるまで毎日苦い肝を舐めて呉への復讐を誓ったとされる故事から、「臥薪嘗胆」の格言を生んだ英傑でもあった。
 ちなみに、宿敵同士が協力し合うことのたとえ「呉越同舟」のもとともなったライバル呉はその建国者こそ漢民族とされるが、在地有力者により首長に推戴されたとの伝説から推すと、王族以外の被支配層は越と同様に南方系民族だったとも考えられるところである。
 さて、腹心の工作のおかげで解放された勾践は、最終的に呉を破って中原を征したため、春秋五覇に数えられることもある。南方民族系の国が中原を征するのは、これが最初であった。しかし、越の覇は長続きせず、南方で新たに台頭してきた楚によって破られ、前4世紀末までに滅亡、戦国七雄に名を連ねることはなかった。
 結局、越は楚に吸収されたうえ、さらに楚の滅亡後は漢化されていったことで、完全に消滅した。もっとも、越の残存勢力が現在の福建省に移住し、閩越を建て、一時は強勢化したが、これも前漢によって滅ぼされた。
 とはいえ今日、北方方言(官話)と中国語の話者を二分する南方方言の呉語は、越の言語を基層としているとの説も有力で、そうだとすると、短い覇権に終わった越は言語の面では漢民族にも大きな痕跡を残していることになるだろう。