歴史の余白

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ノルマンディー地方史話(連載第15回)

第15話 繁栄と宗教改革

 

 百年戦争を経て、ノルマンディー地方がフランス領に確定した後、戦後の復興と王国の再建に努めたルイ11世は、末弟シャルルにベリーを王族所領として与えたが、これに不満のシャルルは1465年、ルイに不満を持つ貴族とともに反乱を起こした。
 この反乱を収拾するため、ルイは和約でノルマンディーをシャルルの所領に追加し、シャルルがノルマンディー公となるが、シャルルには広大なノルマンディーを管理する能力がなく、翌年にはルイがノルマンディーの統治を奪回、改めてシャルルと所領を交換する和約を締結した。

 

 これ以降、ノルマンディ公国は名実ともに終焉し、ノルマンディー公は時にフランス王族に与えられる名誉称号と化した。とはいえ、ノルマンディーは寂れたわけではなく、かえって、16世紀以降は、イギリス海峡に面する地の利を生かし、漁業と商業で繁栄するようになり、ノルマンディー商人はロンドンやアントワープに商圏を広げ、塩やミョウバンの輸入で大いに潤った。
 またノルマンディーの港は、南北アメリカ大陸への探検のための玄関口となり、ブラジルに到着した最初のフランス人と言われるビノー・ポールミエ・ド・ゴンヌヴィルやニューファウンドランドを探査したジェアン・ドゥニなどの探検家を輩出、今日のニューヨークを初めて探査したヨーロッパ人とされるイタリア人ジョバンニ・ダ・ヴェラッツァーノもノルマンディーを拠点とした。

 

 こうした開放的土地柄のため、16世紀前半以降、ノルマンディーはフランスにおけるプロテスタント派(ユグノー)の主要な拠点となった。特に、アランソンやコタンタン半島宗教改革の中心地となり、地元の小貴族や商人らがプロテスタントに入信していった。
 そのため、16世紀後半期のノルマンディーは、カトリック勢力との熾烈な宗教戦争の場となり、1562年にはイギリス女王エリザベス1世とユグノーの間で、イギリスがユグノーを保護することを約したハンプトン・コート条約が締結され、イギリス軍がル・アーヴルとディエップを占領するために派遣された。

 

 この後、1572年にカトリック派がフランス全土でユグノーを虐殺したサン・バルテルミー事件では、ノルマンディーの首府ルーアンでも虐殺が起きたが、ノルマンディーでは最も後までプロテスタントが生き残った。17世紀後半の時期でも20万人のプロテスタントが残存していたとされる。
 しかし、ルイ14世によるナント勅令(宗教寛容令)の取り消しが最後の打撃となり、ノルマンディー地方ユグノー派は大半がプロイセン、オランダ、イングランド南アフリカにまで亡命していった。結果として、この地方は著しい人口減少に直面し、繁栄が失われたのである。