歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

土佐一条氏興亡物語(連載第5回)

 五 戦国大名・土佐一条氏の盛衰(中):傀儡化

 土佐一条氏五代目兼定は父・房基の突然の自害により七歳で跡を継ぐが、20代半ばの頃までは比較的順調であった。彼は海を越えて豊後の大友氏の娘を継室として娶り、大友氏と同盟したほか、伊予への版図拡大を狙い、伊予を侵略したが、統治の土豪河野氏に大敗を喫した。
 それが永禄十一年(1568年)のことである。この時代はすでに戦国に入っており、下剋上も盛んであった。土佐でも、従来は「土佐七雄」の一党として土佐一条氏に従属していた長宗我部氏が台頭してくる。
 長宗我部氏は渡来系古代氏族秦氏の末裔とされ、元は信濃に領地があったが、平安末から鎌倉初頭に土佐に移住・土着し、永禄年間には第21代の長宗我部元親の世となっていた。彼は野心的で、父・国親の時に整備された半農半兵の民兵組織・一領具足を用いて土佐中部で勢力を急速に拡大、一条氏の所領にも触手を伸ばしていた。
 一方の兼定はと言えば、放蕩三昧の生活で、長宗我部氏の動きにも鈍感な中、明敏な筆頭家老にして遠縁でもある土居宗珊[そうざん]が国を支えていた。ところが、兼定は土井に疑心を抱き、一族を処刑してしまう。
 その動機については諸説あり未確定であるが、明敏すぎる家臣に主君が疑心を抱くことは古今東西しばしば見られることである。とはいえ、この一件は家臣団総体に衝撃を与え、京都から本家一条氏当主・内基を招いた家臣団の決定により、天正元年(1572年)、強制隠居となった。本家も関与した事実上のクーデターであった。
 翌年には長宗我部氏に擁立された子息・内政によって国を追放され、継室の実家である豊後に逃れ、姻族の大友氏の元に身を寄せた。大友氏は有力なキリシタン大名であり、継室もジュスタの洗礼名を持つキリシタンであったことから、兼定も感化され入信、洗礼名ドン・パウロを得た。
 その一方で、彼は土佐奪回を目論み、大友氏や地元豪族の支援を得て、天正三年(1575年)、土佐に進撃するが四万十川の戦いで迎え撃つ長宗我部軍に大敗、敗走した。これにより、土佐一条氏は事実上滅亡し、土佐は長宗我部氏の天下となったとされる。
 敗走後の兼定は、土佐進撃に協力した伊予の豪族・法華津氏の庇護の下、同氏支配下の瀬戸内海の小島・戸島[とじま]に隠棲し、つましい暮らしながら、敬虔な信仰生活を送り、天正十三年(1585年)に客死、当地に埋葬されたとされる。
 しかし、別伝として、兼定の生存を脅威と感じた元親が刺客を送り込み、兼定を暗殺したというものがあり、現存する兼定の墓とされるものも、半ば伝承的である。とはいえ、兼定は地元では現在でも崇敬されており、戸島では毎年命日に法要が営まれているという。