歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

もう一つの中国史(連載第4回)

一 南中国の独自性

 

(3)楚の盛衰
 南方系諸国の中から後に戦国七雄にまでのし上がる楚の主体民族は不詳であり、発祥地からすると、中原にも近く、漢民族系と見る余地もある。ただ自ら蛮夷とみなしていたことや、貝貨や墓制に漢民族系のものと明白に異なる特徴が認められることから、越と同様、南方民族系の可能性も高い。
 楚の歴史は古く、『史記』では周の第二代成王から子爵に封じられたと記録される。これは半ば伝説であり、実質的な建国は前8世紀後半から前7世紀初頭にかけての武王の頃と考えられるが、このような古記録からも、楚はその地政学上、早くから漢化が進行し、準漢族系国家として整備されていったことが想定される。
 ちなみに、かつて楚が所在した湖北省から湖南省にかけては現在、少数民族ミャオ族が集住している。同じ地域には紀元前5000年に遡る稲作系新石器文化である大渓文化の存在が確認されており、遺伝子系統から、ミャオ族の祖先集団が担い手だった可能性も指摘される。そこから、漢化する以前の楚の主体民族との関連も想定できるところである。
 楚は次第に南方で勢力を広げ、武王から数えて6代目荘王の時に当時中原の強国だった晋を破り、中原の覇を窺うまでになる。この時代の楚は漢民族系の呉と同盟することで、覇権を分有した。しかし、同じく7代目共王の時、晋から復讐戦を挑まれて敗北、覇権を失う。その後も呉から攻撃され、滅亡の危機に瀕するが、当時中原最西端から台頭してきていた新興国・秦の援軍を得て、亡国を免れた。
 戦国時代に入ると、特に前4世紀前半には七雄の一つ魏から亡命してきた兵法家・呉起の献策により富国強兵を目指し、国政改革を断行する。その後、南方の強国越を破った楚は南方系では唯一戦国七雄に名を連ねる強国として存続していく。
 春秋・戦国時代の楚は老子が創始した道家や政治家でもあった詩人・屈原に代表される南方系詩集『楚辞』といった北方とは異なる独自の哲学・文学を生み出し、文化的にも高度な強国であったが、秦が強盛化してくると、秦との関係をめぐり国論が二分され、策略をもって反秦派の屈原を追放した親秦派が勝利する。しかしこれが裏目となり、楚は狡猾な秦に圧迫され、最終的に前223年に滅亡した。
 統一王朝を建てた秦が短期で衰退後、漢の建国者・劉邦のライバルとして覇を争った項羽は楚の武将であり、彼が勝利していれば楚が復活し、統一王朝となった可能性もあるが、歴史の歩みはそうはならなかった。以後、南方系独立国は中国史から姿を消す。
 おそらく、漢の建国以降、漢の地方行政区に組み込まれた南中国にも漢民族の大規模な移住波が起きたことにより、言語・文化ともに漢民族化が進み、南方独自の民族・文化は漢化しなかったチワン族やミャオ族等の少数民族として再編・収斂されていったものであろう。