歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

もう一つの中国史(連載第5回)

二 西南中国の固有性


(1)四川文明と巴蜀
 今日、中国西南部の主要な省として四川省が存在するが、1980年代になり、同省広漢市の三星堆遺跡で、前2000年かそれ以前にも遡る高度文化圏の存在が明らかになった。
 四川盆地は長江の上流に当たるため、この文化圏も広い意味では南中国の長江文明に含めることは可能だが、四川文化には怪物をあしらったかのような異形の青銅製仮面や人物像に象徴される固有の特色が認められることや、地理的にも長江文明中心地から隔たった辺境地であることから、独自の四川文明圏を形成した可能性が想定される。
 史料上はこの地域にはかつて独立国として蜀(古蜀)があったとされることから、蜀は四川文明を基層とした国家であると推定されている。四川文明・蜀の担い手民族については不詳であるが、四川省には今日でも西部・南部を中心にチベット少数民族が居住することからして、四川文明の担い手もチベット系だった可能性はある。
 ただし、蜀の王権には複数回の交代の形跡があり、最終的に今日の成都を拠点に王室を担った開明氏は楚から入ったとされる。そうだとすれば、蜀は最終的に楚人系の勢力に征服されたと見ることもできる。
 蜀は殷最後の暴君紂王の討伐と周王朝の樹立に貢献した後は周に属したと見られるが、辺境地のため、実質上は独立国であり、周が事実上滅亡すると、いち早く王を称して自立した。しかし、地理的条件からも春秋・戦国期の抗争の外にあり、結果として独立を保ったようである。
 一方、蜀の東隣には現在の重慶付近を拠点とする巴があった。巴も蜀と同様に周王朝樹立に貢献している。戦国時代の巴は東の楚とは通婚関係にあった。巴人の末裔民族の一つとしてチベット系のトゥチャ族が想定されているが、古代国家としての巴は多様な民族集団の連合体であったと考えられている。
 巴蜀はともに塩の生産を経済基盤として発展したが、ライバル関係でもあり、しばしば交戦した。最終的に両国が滅亡した要因も、その対立関係を新興の秦に利用・介入されたことにあった。