歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

シリーズ:失われた権門勢家(第4回)

四 漢皇室劉氏

 

(1)出自
 戦国時代末期には楚に属した泗水郡沛県に出自する農民(富農)出自の侠客で、後に漢王朝前漢)を建てる劉邦に始まる皇室。ただし、前漢が滅亡した後、中断を経て漢王朝を再興した劉秀(光武帝)は、前漢6代景帝の七男である劉発(長沙王)の子孫という傍流の分家であるが、新たに皇室となったため、ここではこの家系を含めて漢皇室劉氏とみなす。

 

(2)事績
 漢王朝は初代皇帝となった劉邦が秦末動乱の中、風雲児として一代で築いた平民による典型的な下剋上王朝であるが、劉邦(太祖)の没後も長期的な成功を収めて、古代中国から今日まで続く漢民族系中国の土台を築き、漢を中国の代名詞化した。一度滅亡しながら、同一家系が短期間で再興を果たし、前漢後漢と通じて400年に及ぶ王朝時代を築いた点でも、世界史的に例を見ない事績である。

 

(3)断絶経緯
 184年に始まる黄巾の乱により混乱が拡大する中、後漢最後の皇帝となった献帝ははじめ実権者である軍人の董卓、次いで三国鼎立時代の魏を建てた曹操の傀儡となった。曹操が死去した220年、献帝曹操を継いだ息子の曹丕禅譲して、山陽公の地位に退いた。山陽公劉氏は魏の滅亡後、西晋時代まで存続するが、永嘉の乱(307年‐312年)の渦中、献帝の玄孫に当たる劉秋が殺害されて断絶した。

 

(4)伝/称後裔氏族等
 東晋時代になって、山陽公末裔の捜索を命ずる詔勅が発布されたが、実現していない。もっとも、三国時代蜀漢を建てた劉備前漢景帝の九男・劉勝の子孫(庶流)を称していたが、これも確証がないうえ、劉備の子孫も永嘉の乱で殺害された。
 ただし、劉備の曽孫に当たる劉玄は乱を逃れ、成都に建国したチベット系の成漢に庇護され、東晋時代には改めて山陽公の称号を与えられて、子孫は東晋最後の元熙年代(419年‐420年)まで存続したとされるが、その後の系譜は不明である。
 なお、東晋を打倒して南朝宋を建国した劉裕劉邦の異母弟である劉交(楚元王)の子孫を称したが、確証はなく、仮冒と見られている。その他、いくつかの王朝の開祖が劉氏裔を称するが、いずれも確証がない。
 ちなみに、日本の渡来系古代支族・東漢[やまとのあや]氏の祖・阿知使主[あちのおみ]は後漢第12代霊帝の後裔とする伝承もあるが、これは東漢氏後裔の貴族である坂上氏(後裔として他に大蔵氏など多数)の家伝主張である。