歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

外様小藩政治経済史(連載第18回)

五 森藩の場合


(1)立藩経緯
 森藩は今日の大分県玖珠町を中心とする地域を領地とした小藩であり、藩主家は立藩から幕末まで一貫して来島氏が務めた。来島氏は元来、瀬戸内海の海賊勢力であった村上水軍の一角を担った来島村上氏が江戸開府後、近世大名化したものである。
 村上氏は河内源氏の系統で発祥地は信濃ともされるが、10世紀代には瀬戸内海で土着の勢力を築いていたとする説もあり、発祥には不明な点も残る。いずれにせよ、室町時代以降、言わば海の戦国大名化し、能島・因島・来島の三家に分かれて瀬戸内海西部に割拠したが、豊臣秀吉の発した海賊停止令により、活動の道を絶たれた。
 しかし、三分家のうち来島村上氏豊臣秀吉に臣従して独立大名の地位を獲得することに成功した。その秀吉の時代に当主だった通総[みちふさ]の代から独立大名として来島氏を名乗るようになるが、通総は秀吉が起こした慶長の役に際して水軍を率いて参戦、朝鮮で戦死した。この犠牲によって、来島氏と豊臣氏の結びつきはいっそう強固なものとなった。
 通総の戦死後、その跡を継いだのが15歳の来島長親であるが、来島氏と豊臣氏の結びつきは関ケ原の戦いに際しても切れることなく、来島氏は西軍側に付いた。このことにより、敗戦後は所領没収となり、浪人化することを免れなかった。
 ところが、長親が福島正則の養女を正室に迎えていたことが功を奏し、正則の仲介により、徳川家康から赦免を得ることに成功した。しかも、大名としての復帰が認められる厚遇であった。
 しかし許されたのは本領の瀬戸内海ではなく、豊後国の一部を中心として、大分湾にわずかな飛び地を付加された1万4千石の小さな知行であり、当然海賊活動も許されなかった。
 こうして成立したのが森藩、言わば、陸に上がった海賊の藩である。しかし、康親に改名して初代藩主となった長親は壮健ではなかったらしく、慶長17年(1612年)に31歳で没し、跡をわずか5歳の長男が継ぐなど、存続も危ぶまれる滑り出しであった。