歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

ユダヤ人の誕生(連載第9回)

Ⅲ 入植・王国時代

(8)王国の形成
 中央山地勢力によるカナン平野部再移入が一段落すると、入植地を保持するする目的から、統一王国樹立の機運が生じた。旧約によれば、イスラエル最初の王はサウルであった。彼は、最後の士師サムエルが神の啓示によって選んだベニヤミン族の若者であった。
 サウル自身は王制に否定的であったが、民衆の要求に従うよう神の命を受けたとされる。その際、神はサウルに王の権能について民衆に事前告知するよう指示し、民衆が王によって抑圧されるような事態もあり得ると王制のデメリットを説明したうえ、民衆の判断に委ねたのである。
 このエピソードから読み取れるユダヤ民族の政治思想は、反王制ということである。王国樹立はあくまでも入植地の安全を保障するための技術的な手段にすぎなかったのである。ユダヤ民族は本来、士師時代のように部族ごとの分権体制への性向が強く、現実の必要から王国を樹立しても世襲専制王権とはならず、初期には王はサウルやダヴィデのように庶民から選抜されたり、後にもしばしばクーデターによる王位簒奪が発生するなど、血統より実力を重んじる傾向が根強かったと言える。
 ともあれ、紀元前11世紀末頃には統一イスラエル王国が樹立される。だが、この「王国」が実際どの程度整備されていたかは疑わしい。サウルもダヴィデもサムエルによる抜擢であったことを見ると、最初期の最高実力者はなお士師サムエルであって、王は象徴的な存在ないしは軍司令官のような地位に過ぎなかったようにも見える。
 ただ、1990年代前半に今日のイスラエル北部の遺跡で発見された紀元前9世紀頃のアラム語碑文に「ダヴィデ朝」と解釈できる文言が刻まれていたことから、ダヴィデを開祖とする王朝の存在は確認できたとされる。だが、これは王国分裂後のことである。
 統一王国時代の王都は南部のエルサレムで、サウルの属したベニヤミン族もダヴィデの属したユダ族も南部に根拠を置く部族であったことからすると、かれらの「統一」王国は主として南部の部族による連合王国であり、北部をどの程度実効支配していたか疑問なしとしない。
 しかも、サウルもダヴィデもその治世の大半をペリシテ人との戦いに費やしており、依然パレスチナ南部ではペリシテ人が強大な勢力を保持していたことが窺え、根拠地の南部地域ですら決して安全は保障されていなかったと見られる。
 その「統一」王国も最初のサウル王統はサウルの息子イシュ・ボシェテで終わり、ダヴィデが新たな王朝を開く。ダヴィデ王の晩年にはようやく安定を確保し、彼は中央集権統治の確立に向け、王権強化を進めたとされる。ダヴィデの後を継いだのが、彼の息子、有名なソロモンである。
 ソロモンはその栄華と英知をもってその名をとどろかせたとされ、彼の時代は統一王国時代の全盛期とみなされるが、高名なはずのソロモンが同時代のエジプトやアッシリアの文献では一切言及されないことからも、初期のイスラエル王国の権勢について過大評価は避けねばならないだろう。