歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

ユダヤ人の誕生(連載第10回)

Ⅲ 入植・王国時代

(9)王国の分裂
 ダヴィデ、ソロモン父子王の時代に栄華を誇ったとされる統一イスラエル王国はソロモンの没後、南北に分裂する。そのうち南王国(ユダ王国)はほぼ代々ダヴィデの子孫が王位を継承していくのに対し、北王国(北イスラエル王国)は一介の官僚にすぎなかったヤロブアム1世によって建てられた。
 従来、統一王国が分裂した理由として、ソロモン王時代の重税や過酷な賦役などへの民衆の不満なども指摘されているが、前回見たように、元来「統一」王国は南部の部族を主体としており、北部(いわゆる10支族)に対する実効支配の程度には疑問符がつくことからして、王国の「分裂」とは、もともと王国に内在していた分裂がダヴィデ、ソロモンのような強力な王の没後に表面化しただけのこととも言えよう。
 いずれにせよ、紀元前10世紀末以降、ユダヤ民族は南北二つの王国に分かれ、しばらくは両国間で抗争が続いていくが、どちらかと言えば、北王国のほうが国力に富んでいたものと考えられる。北王国がやがて王都としたサマリアは山地であったが、北王国の支配領域は平野部にも広く及んでおり、農業生産力も高かったと見られるからである。
 一方、エルサレムを王都とする南王国はダヴィデ、ソロモンの系譜を引く点で王国としての正統性には勝っていたものの、その支配領域は狭隘な山地を中心としており、農業生産力も十分とは思われない。ただ、南王国は政情が安定しており、唯一の例外として前国王の母が女王として即位し、内政を混乱させたケースを除き、世襲王朝として存続していくのである。
 北王国のほうはその全史を通じてクーデターが頻発し、たびたび王位が簒奪される政変に見舞われた。こうした政情不安が命取りとなる。折からオリエントではアッシリアが強勢化して、カナンにも手を伸ばしてきていたところ、末期の北王国は相次ぐクーデターで政情不安がいっそう募っており、アッシリアの攻勢に対して防備を固める余裕がなかった。
 結果として、北王国は前722年、アッシリアの征服王サルゴン2世の大規模な侵攻作戦の前に滅亡した。以後、北王国支配層は捕虜として連行されていき、民衆は離散したが、少なからぬ者がアッシリアの属州統治政策としてカナンに移入してきたアッシリア人をはじめとする異民族と通婚・混血させられ、同化されていった。聖書で否定的に言及されるサマリア人とは、こうして生じた混血系の新たな自覚的少数民族であったがゆえに、ユダヤ人から迫害を受けることになる。
 ちなみに有名な「失われた10支族」とは北王国を構成し、王国滅亡後に「行方不明」となった10部族のことであるが、伝承としてはともかく、史実としての「失われた」とは、混血同化による民族的アイデンティティーの喪失を意味しているであろう。
 さて、「ダヴィデ朝」としての伝統を保持した南王国は政情の安定に支えられて、北王国よりも150年ほど長く存続していく。外交的にもアッシリア、次いで勢力を回復したエジプトに服属することで安全を確保していたが、新興の新バビロニアに宗主エジプトが敗れたことを契機に新バビロニアに押さえ込まれていく。
 前597年と586年の二度にわたる新バビロニアネブカドネザル2世によるエルサレム攻略により、支配層や有力者の多くがバビロンに捕虜して連行され(バビロン捕囚)、ダヴィデ朝はついに滅亡したのであった。