歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

松平徳川女人列伝(連載第10回)

十五 天英院(1666年‐1741年)

 天英院(本名・近衛熙子[ひろこ])は関白・太政大臣近衛基熙の娘として生まれ、延宝7年(1679年)6月、当時はまだ甲府藩主であった徳川家宣(旧名・綱豊)に嫁いだ。この婚姻について、父の基熙はひどく不服であり、幕府からの圧力でやむを得ず承諾したとされる。
 基熙は武家との婚姻は家訓に反すると主張していたが、甲府徳川家という徳川一門の中で御三家より家格の低い家系との婚姻に不服があったのかもしれない。しかし、めぐりあわせで、世子のない5代将軍綱吉が甥に当たる綱豊を後継に定めたことで、綱豊が6代将軍家宣となり、熙子も将軍正室に格上げされた。
 結果として、基熙は将軍の舅となり、一転して親幕派公家の筆頭として、豊臣秀吉以来空席となっていた太政大臣に就任し、朝廷で権勢を振るうようになったため、この時期の朝幕関係は歴史上最も安定化した。
 熙子は将軍正室として形式的な立場にとどまらず、二人の子を出産したが、いずれも夭折し、世子を残すことはできないまま、正徳2年(1712年)に夫の家宣と死別すると、落飾して天英院と号した。
 しかし、熙子は跡を継いだ義理の息子の家継が幼少であったせいか、落飾後も江戸城を出ず、大奥首座として居残り、大奥のみならず、表の政治に関しても隠然たる影響力を持ったと見られる。夭折したため短期で終わった第7代家継時代は、ある意味で天英院時代であったとも言える。
 天英院は、次項で見る生島絵島事件の処理でも何らかの関与をし、さらに第8代将軍として紀州徳川家の吉宗が抜擢されたのも天英院の指名によるとされるなど、将軍家存続のうえでも決定的な役割を果たした。
 その後、正室不在の吉宗時代にも大奥に居残り、寛保元年(1741年)、当時としては長命の76歳で没するまで、影響力を保持した。吉宗の生前隠居はその四年後のことであるから、吉宗将軍時代の大半に天英院が何らかの影響力を行使していた可能性がある。
 
十六 月光院(1685年‐1752年)
 しばしば天英院のライバルとして描かれる月光院(本名・勝田輝子)は元武家の僧侶を父に持ち、京極家や戸田家での奉公を経て、甲府徳川家に出仕するようになったが、間もなく家宣の寵愛を得て、側室・喜世の方となった。
 このように月光院は正室・天英院とは対照的な出自を持つが、天英院と違ったのは、世子を産んだことである。これが第7代将軍となる家継であり、結果として、家宣死去後は将軍生母としての地位が固まり、落飾して月光院を号した彼女は大奥でも天英院に次ぐ次席となった。
 この時期の月光院の権勢は相当なもので、将軍最側近の間部詮房や先代からの儒臣・新井白石らと結び、大奥首座の天英院を凌駕しかねない勢いであったが、一方で幼少将軍のもと、大奥風紀の乱れが指摘されるようになった。
 それを象徴するのが、月光院付き幹部女中(御年寄)の江島が月光院名代として家宣墓参で増上寺へ赴いた帰り、芝居小屋に立ち寄り、なおかつ人気歌舞伎役者・生島新五郎との宴席に出て門限に遅れるという「事件」であった。
 世上、江島生島事件として知られる本件は必要以上にフレームアップされ、月光院と生島が当時は禁断の関係を持ったという容疑(江島は否認、生島は拷問により自白)のもと、評定所による大々的な審理に発展し、当事者の江島は死罪を一等免じて遠島の審決を受けたが、月光院の嘆願でさらに減刑のうえ信濃の高遠藩お預けとなった。
 本件ではその他の大奥関係者から月光院の兄弟や芝居小屋の座長に至るまで、多数が連座処罰され、大奥史上最大の不祥事となった。これを機に月光院の権勢は失墜し、さらに実子の将軍・家継が8歳で夭折し吉宗が後継者となると、大奥を離れることとなった。
 本来は表向きの政治に関与しない大奥の建前上、事件処理に天英院がどのように関与したかは不明であるが、事件を契機とする月光院との命運の分かれを見ると、天英院がこの事件を大いに利用して権勢を取り戻したということは充分に想定できるところである。