歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

ノルマンディー地方史話(連載第16回)

第16話 探検家ラ・サールルイジアナ

 
 北欧バイキングによって領有・開拓されたノルマンディーはフランスの中でも特別な地域で、元来、冒険精神に富むところである。そのことは、フランス領として確定された後も、ノルマンディー人の新大陸に対する飽くなき関心として現れてくる。
 16世紀にノルマンディーが南北アメリカ探検家にとっての玄関口となったことは第15話で見たが、17世紀にもこうした探検熱は続いた。中でも、今日のアメリカ合衆国ルイジアナ州の名付け親となったルネ‐ロベール・カヴリエ・シュ・ド・ラ・サールの探検は歴史的なものであった。

 
 ラ・サールルーアンで比較的裕福な商人の家庭に生まれ、イエズス会員となるが、同会を退会した後、当時ヌーヴェル・フランスと呼ばれたカナダのフランス植民地へ移住した。これは、先に移住していた聖スルピス会司祭の兄を頼ってのことだったようである。
 ヌーヴェル・フランスの礎石を作ったのは17世紀初頭に活躍した探検家サミュエル・ド・シャンプランで、彼はノルマンディー人ではなかったが、その後、ヌーヴェル・フランスにはノルマンディー人の移民が多く定住し、ラ・サールの兄もそうした一人だった。

 
 しかし、ラ・サールはヌーヴェル・フランスの単なる移民にはとどまらず、彼が「中国」に通ずると信じていたルートを発見するべく、ヌーヴェル・フランスを南下する探検に着手した。彼は生涯に三度の探検を行ったが、その間に踏査した領域は今日のカナダとアメリカにまたがる五大湖地方からオハイオ河、ミシシッピ河、メキシコ湾にまで及んだ。
 この長大な探検の結果、彼はヌーヴェル・フランスの本拠であるケベック(現ケベック州)と今日のアメリカ合衆国ミシシッピデルタ地方の間を領域を「発見」し、時のフランス国王ルイ14世―奇しくも、ラ・サールの生年1643年に即位―にちなみ、「ルイジアナ」と命名した。これによって、ヌーヴェル・フランスは南へ大きく領域を拡張することになった。

  
 さらにメキシコ湾岸への延伸を目指すラ・サールの三回目の探検は、船4隻に総勢300人余りを引き連れた大掛かりなもので、探検を超えた植民活動そのものであった。
 一行は海賊の襲撃や座礁などに遭いながらテキサスまで到達し何とか入植地を建設したものの、先住民の襲撃や病気などから生存者36人まで激減、最終的に1687年、ラ・サールは部下の反乱により殺害された。
 ちなみに、ラ・サール隊の難破船の一つ、旗艦ラ・ベル号は1995年にテキサス州マタゴルダ湾の泥中から発見され、2003年にはアメリカとフランスの政府間合意により、残骸の所有権がフランスに返還された。