歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

クルド人の軌跡(連載第5回)

二 クルド人の全盛

サラーフッディーンの天下取り
 西洋社会でもサラディンと短縮転訛して記憶されているアイユーブ家のサラーフッディーンキリスト教世界の第三回十字軍を撃退した功績で知られ、西洋社会でも最も歴史的な知名度の高いクルド人であるが、十字軍撃退以上に功績を上げたのは、エジプト遠征であった。
 1160年代に三度にわたったエジプト遠征を実施したのは、当時サラーフッディーンが仕えていたアレッポのザンギー朝第2代君主ヌールッディーンである。彼は当時エジプトを支配していたシーア派ファーティマ朝を征服してエジプトの支配権を握る野望を抱いていた。
 サラーフッディーンは叔父の遠征軍総司令官シールクーフ―アイユーブ家が故地を追われる原因となる不祥事を起こした人物―の配下としてエジプト遠征に参戦したが、特に第二回遠征では同盟を組んだエルサレムの十字軍国家とファーティマ朝の連合軍によるアレクサンドリア包囲戦を耐え抜き、勝利を収める戦果を上げた。
 第三回エジプト遠征の結果、シールクーフ率いるザンギー朝軍はファーティマ朝エジプトの首都カイロに進軍し、シールクーフはファーティマ朝から宰相に任ぜられた。その結果、ファーティマ朝体制は形式上温存されたが、事実上はザンギー朝が乗っ取る形となった。
 ところが、シールクーフは宰相就任からわずか二か月で急死、後任としてサラーフッディーンが任命された。この人事の裏には当時ファーティマ朝で若いカリフを操る実力者となっていた黒人宦官ムータミン・アル‐ヒラーファの深謀もあったが、若輩のサラーフッディーンを見くびっていた彼はクーデターを企てるも事前に露見して処刑され、かえってサラーフッディーンの支配が強化された。
 1171年に、最後のファーティマ朝カリフ、アル‐アーディルが継嗣なくして20代で死去すると、サラーフッディーンは満を持してファーティマ朝を廃し、自ら実質的な新王朝を創始した。ただし、イラクアッバース朝カリフの象徴的権威を承認し、自らはカリフでなくマリク(王)を名乗ったが、エジプトをシーア派からスンナ派へ転換することを明確に定めた。
 こうして創設されたのが実父の名に由来するアイユーブ朝であるが、従来伺候してきたシリアのヌールッディーンも存命であり、サラーフッディーンの独立を恐れてシリア帰還を要求していたところ、サラーフッディーンはこれを拒否し、険悪化していた。
 ヌールッディーンはエジプトへ親征して自らサラーフッディーンを討伐することも検討していた矢先の1174年に病死した。これにより、結果としてサラーフッディーンアレッポのザンギー朝からも独立した。
 その後、サラーフッディーンは1183年までにシリアの征服を完了、87年にはエルサレム十字軍国家に侵攻して、エルサレムを占領した。このことが欧州キリスト教世界に衝撃を与え、第三回十字軍の遠征を呼び起こすが、サラーフッディーンエルサレム防衛に成功し、イスラーム世界の英雄となった。
 こうして、サラーフッディーンはエジプトとシリア、さらに聖地エルサレムを束ねたアイユーブ朝初代君主として足跡を残すこととなったが、クルド人イスラーム世界でこれほどの「天下人」となったのは、後にも先にも唯一の例である。