歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

土佐一条氏興亡物語(連載最終回)

七 土佐一条氏の「消滅」と「再興」

 
 土佐一条氏第五代の一条内政が死去した後の土佐一条氏の動向は、にわかに不明確になる。内政には継嗣として政親がおり、彼が第六代当主となったとする説が存在するが、その実在性を明確に証する同時代記録は存在していない。
 ただ、京都の御所に仕える女官が書き綴った一種の業務日誌『御湯殿上日記』の天正十四年十二月二十二日の条に「とさの一てう殿しょ大夫四位。せっつのかみ申」とあるのが、わずかな根拠とされている。
 これは要するに「土佐一条殿四位摂津守」ということで、土佐一条氏の当主であることは間違いないが、名は記されていない。この時代の土佐一条氏は長宗我部氏の完全な傀儡として、何の実権もない存在と化していたことを考えれば、その名も事績も記されないのも不思議はない。
 父の内政は如上記事の前年、天正十三年(1585年)に二十三歳で死去しているので、息子の政親も幼年であったことに間違いなく、従って、政親は二重の意味で傀儡にすぎなかった。
 そのうえに、実権者の長宗我部氏自身も第二十二代当主の盛親が関ケ原の戦いで西軍に加わったかどで改易処分となり大名身分を失ったうえ、大坂の陣でも豊臣方に加勢して処刑され、長宗我部嫡流は断絶した。
 こうした主家の失墜の中、土佐一条氏の消息も途絶えてしまう。政親は関ケ原の戦いの後、大和に移住したという説もあるが確証なく、元来、影のような存在のうえに、その最期も不明である。―主家没落後、一般人化し、帰農した可能性?
 その点、京都の本家一条氏は健在であったから、本家に保護を求めることもできたはずであるが、そうした記録もないため、土佐一条氏は文字どおり歴史から姿を消してしまったことになる。
 ただし、以前の回で見たとおり、土佐一条氏二代当主・一条房家の次男である房通が一条本家の養子として跡を継いだため、土佐一条氏の血統は本家にも継承されたが、房道を継いだ長男・兼冬の後、兄を継いだ次男の内基に実子なく、後陽成天皇の皇子を養子に迎えたため、土佐一条氏の本家血統も絶えた。
 その後、土佐一条氏末裔を称する氏族はなかったところ、明治維新後、一条本家からの新たな分家として第二十五代の公爵一条実輝の長男・実基を当主に土佐一条氏を再興し、男爵を授爵されたが、名跡のみの復活に過ぎないうえ、これも一代限りで絶家している。