歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

インドのギリシャ人(連載第3回)

Ⅱ インド・ギリシャ人王朝の成立

 
 インド・ギリシャ人王朝が成立するきっかけは、ギリシャ系バクトリア王国の南侵と滅亡にあった。バクトリア王国は、インドにおけるマウリヤ朝の支配が揺らぎ始めた紀元前200年頃、当時のデメトリオス1世の下でインドへの拡張を開始し、彼を継いだ弟王アンティマコス1世の時、インド亜大陸北西の要衝ガンダーラを征服したと見られている。
 しかし、より本格的なインド侵出は、デメトリオス1世配下の将軍であったアポロドトス1世の時代であり、彼が固有のインド・ギリシャ人王朝の初代王とみなされている。
 さらに、アポロドトス1世を継いだデメトリオス2世が、インド・ギリシャ人王朝の基盤を強化した。この時代にはマウリヤ朝は滅亡し、インドは分裂状態に陥っていたので、その空隙が追い風となったようである。
 ところが、元来、王権が弱く、内紛が絶えないバクトリア王国ではセレウコス朝リア王の従兄弟に当たる野心家エウクラティデスがクーデターで王位を簒奪する政変が発生した。デメトリオス2世は反撃に出るが、パルティア王国と同盟した劣勢のエウクラティデスが勝利し、エウクラティデス1世として即位することに成功した。
 これが紀元前171年頃とされ、バクトリア王国の版図はインドまで拡張されたが、エウクラティデス1世は対立していた自身の王子によって暗殺され、王子がエウクラティデス2世として即位した。しかし、彼もまた自身の息子に殺害されてしまう。
 その後、バクトリア王国は分裂、内乱に陥った末、本国はこの地で台頭してきた遊牧勢力の大月氏によって奪われたが、インド側に確保していた版図はインドの混乱に乗じて維持されたため、ここに改めてインド・ギリシャ人王朝が形成されることとなった。
 このインド・ギリシャ人王朝の支配領域はインド仏教の古都タキシラを中心とするガンダーラ地方からパンジャブ地方を超えてガンジス河流域にまで至り、デメトリオス1世がタキシラの対岸に建設したシルカップ(実質的にはタキシラ都市遺跡の一部)も、この地域を代表するギリシャ都市遺跡として残されている。