歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

ノルマンディー地方史話(連載第17回)

第17話 海港都市ル・アーヴル

 

 ノルマンディー地方では、バイキング出自のノルマンディー公国が内陸のルーアンを首都に定めて以来、ルーアンが政治的・宗教的な中心地であった。しかし、公国の消滅後、16世紀に時のフランス国王フランソワ1世が新たに建設した沿岸のル・アーヴルが台頭してくる。
 ル・アーヴルはセーヌ河口にして大西洋沿岸という立地にあり、今日ではマルセイユに次ぐフランス第二の海港にして、人口もルーアンを上回り、ノルマンディー地方最大の都市に成長している。
 ル・アーヴルの特質は人工的に計画された都市という点にあり、その意味では近代的都市計画の先駆とも言える。ノルマンディー地方にとって、ル・アーヴルの建設は公国なき後、フランス領となって以降、新たな出発点となった。

 

 ル・アーヴルの当初の建設目的の一つは、海峡をはさんで対岸のイギリスを念頭に置いた軍事拠点化にあった。16世紀には、時の実力者リシュリュー枢機卿の主導で、兵器庫や要塞の建設が本格化され、ル・アーヴルの軍事都市化が進んだ。
 18世紀の世界大戦である七年戦争が勃発すると、軍事都市ル・アーヴルの存在意義が増す。この時、ル・アーヴルフランス軍によるイギリス侵攻計画の重要拠点として想定されていたが、それを見越したイギリス側が1759年7月3日から5日にかけて、先制的にル・アーヴルへ艦砲射撃をしかけ、フランスの侵攻計画を阻止した。
 ちなみに、ル・アーヴルは20世紀にも再び大戦の舞台となり、ドイツ占領下からのフランス解放をめざす連合軍による大空襲を経験するが、これについては後に連合軍のノルマンディー上陸作戦と絡めて後述したい。

 

 こうした軍事都市としての顔のほかにも、ル・アーヴルは大西洋沿岸の立地を生かして、奴隷貿易港としても発展するという、今となっては不名誉な歴史も持つ。17世紀から19世紀にかけての大西洋奴隷貿易で主要な奴隷貿易港の一つとなったのが、ル・アーヴルだったからである。
 結果として、ル・アーヴルは奴隷商人の拠点ともなり、奴隷貿易で財を成した奴隷商人たちが邸宅を構え、かれらの邸宅が集まる海岸地区はル・アーヴルの高級住宅街を形成した。現在も歴史建造物として残る、ル・アーヴル有数の奴隷商人マルタン‐ピエール・フォエッシュが所有したメゾン・ド・ラルマトゥールはその象徴である。
 ちなみに、1749年、時のルイ15世が海を見たがった公妾ポンパドゥール侯爵夫人を伴い、ル・アーヴルを訪問して以来、ル・アーヴルは一種の海岸リゾート地の先駆けとしても発展していく。

 

 計画都市というル・アーヴルの特質はフランス革命前夜に新たな段階を迎える。大火の後、時のルイ16世紀の指示により、建築家フランソワ・ローラン・ラマンデによる都市拡張計画が始動したからである。
 今日あまり知られていないフランソワ・ローラン・ラマンデは近代的な都市計画を担う建築家の先駆けで、18世紀のブルボン王朝に重用されてフランス各地で都市再開発に携わったが、ノルマンディー地方はその中心的な場所であった。
 このラマンデ計画はフランス革命の勃発により中断を余儀なくされるが、革命の収束後、息子で技術者のピエール・ラマンデに継承され、再開された。その成果の一つに、セーヌ河にかかるピエール・コルネイユ橋がある。